指先から始める剣 3
夕方、ミラは再びエリオットの家を訪ねた。
祖父母が住んでいたという家は、村の外れに近い場所に建っている。古いが、手入れはされていた。窓辺には乾いた木の枝が束ねられ、庭には使われなくなった農具が置かれている。
扉を叩くと、すぐにエリオットが出てきた。
「ちゃんといましたね」
「君に叱られたくないからな」
「良い心がけです」
「褒めているのか?」
「はい」
エリオットは少し複雑そうな顔をした。
ミラは中へ入り、机の上に道具を並べる。朝と同じように、右腕の熱と痛みを確認した。
悪化はしていない。
むしろ、朝より少し落ち着いている。
「指を動かしてみてください」
エリオットは右手を机の上に置いた。
親指。
人差し指。
中指。
ゆっくりと、ほんの少しずつ。
動いた。
ミラは頷いた。
「いい変化です」
「本当に?」
「はい。朝より動きが滑らかです」
「布は」
「一回だけです」
エリオットは布をつまむ訓練を一度だけ行った。
朝よりも、ほんの少し長く保てた。
たった五つ数える間だけ。
けれど、エリオットにとっては大きな一歩だった。
「今日はここまでです」
「分かった」
今度は素直に従った。
ミラは少し安心し、最後に護符の状態を確認しようと彼の手首へ視線を落とした。
その瞬間、目を止めた。
「……エリオットさん」
「何だ」
「護符を、少し見せていただけますか」
エリオットは怪訝そうにしながらも、右手首を差し出した。
黒い紐に結ばれた小さな金属片。
これまで、そこには白い花の紋だけが刻まれていると思っていた。
だが今、白花の中心から下へ、細い線が浮かび上がっている。
剣のような線。
ミラの胸が大きく鳴った。
昼間エダに見せてもらった紙片の紋と、よく似ている。
「……白花だけじゃない」
「何?」
「剣の紋が、浮かんでいます」
エリオットは自分の護符を見下ろした。
彼にも見えたのだろう。表情がわずかに変わる。
「前からあったのか」
「いいえ。少なくとも、昨日までは見えませんでした」
部屋の空気が静まり返る。
ミラの胸元では、白い花のペンダントが淡く光っていた。
エリオットの護符もまた、同じ光の中で、白花と剣の紋を浮かび上がらせている。
エリオットは低く尋ねた。
「ミラ。これは何だ」
ミラはすぐには答えられなかった。
守護騎士。
白刃の騎士。
魔を断つ力。
二つ揃いて、女神の道は開かれる。
すべてが頭をよぎる。
けれど、目の前にいるのは伝説の騎士ではない。
右腕を失いかけ、ようやく布をつまめるようになったばかりの青年だ。
もう一度剣を握りたいと願っている、彼自身だ。
ミラは深く息を吸った。
「まだ、分かりません」
正直に答える。
「ですが、あなたの腕と、この護符に起きていることは、治癒の女神の伝承と関係している可能性があります」
「俺にも?」
「……はい。あなた自身にも、何かがあるのかもしれません」
エリオットは黙った。
護符を見つめるその横顔に、困惑と警戒が浮かぶ。
ミラはすぐに言葉を足した。
「でも、今はそれを背負う必要はありません」
エリオットが彼女を見る。
「今、あなたがするべきことは、右腕を治すことです。私は、そのために調べます。伝承も、護符も、あなたの腕の反応も」
「君が?」
「はい」
「なぜ」
なぜ。
その問いに、ミラは一瞬だけ迷った。
治療師だから。
患者だから。
それは間違いではない。
でも、それだけではない気がした。
エリオットが布をつまめた時の、わずかに揺れた瞳。
木剣を握りたいと願った声。
痛みを隠そうとして、それでも少しずつミラに見せるようになった弱さ。
それらを思い出すと、胸の奥が静かに熱くなる。
ミラはその熱にまだ名前をつけられない。
だから、今言える言葉だけを選んだ。
「あなたが、もう一度剣を握りたいと言ったからです」
エリオットは目を見開いた。
「私は治療師です。あなたがその願いを諦めないなら、私も諦めません」
夕暮れの光が、二人の間に落ちていた。
護符の白花と剣の紋は、まだ淡く光っている。
エリオットは長い沈黙のあと、ゆっくりと右手を握ろうとした。
まだ、完全には握れない。
けれど、指は確かに動いた。
「……分かった」
彼は静かに言った。
「なら、俺も諦めない」
ミラは頷いた。
その瞬間、白い花のペンダントと、エリオットの護符が同時に光を放った。
ほんの一瞬。
けれどその光の中で、ミラには確かに見えた。
白い花の奥に、一本の剣が重なる紋。
伝承の中で眠っていたはずの印が、今、目の前で目覚めようとしている。
ミラは胸元のペンダントを握りしめた。
分からないことは、まだ多い。
けれど、この村で起きていることは偶然ではない。
ミラとエリオットは、きっと何か大きなものの入口に立っている。
その先に何があるのかは、まだ見えない。
ただ、ひとつだけはっきりしていた。
彼の剣は、まだ失われていない。
そしてミラは、その剣を取り戻すために、ここにいる。




