父から届いた針 1
その夜、ミラは眠りの浅い場所にいた。
身体は疲れているはずだった。
グレイル村に着いてすぐ、咳に苦しむ患者たちを診た。体内に入り込んだ黒い棘を少しずつ抜き、浄化布で受け止め、窓を開けて風を通し、患者の作業着や靴に付いた粉まで確認した。
魔力も体力も使った。
だから本来なら、横になった途端に眠りに落ちてもおかしくなかった。
けれど、胸元の白花のペンダントが、ずっと微かに温かかった。
眠りの底へ沈もうとするたび、その温もりがミラを引き戻す。
――まだ、何かが終わっていない。
そんな気配がした。
外では、風が吹いている。
鉱山道の灰色の風。
石と砂を運ぶ、乾いた風。
窓の隙間が、かたかたと鳴った。
「……ミラ」
仕切りの向こうから、低い声がした。
ミラは一瞬で目を開けた。
「エリオットさん?」
「起きているか」
「今、起きました。腕ですか?」
「違う」
その声が、いつもより硬い。
ミラはすぐに寝台から起き上がり、上着を羽織った。白花のペンダントが、はっきり熱を持っている。
奥の部屋から出ると、エリオットは入口側の部屋で半身を起こしていた。
右腕は改良帯に固定されたまま。
左手で護符を押さえている。
護符には、白花と剣の紋が薄く浮かんでいた。
「箱ですか」
「箱も反応している。だが、箱からじゃない」
エリオットは扉の方を見た。
「外から来ている」
ミラは中央の部屋へ向かった。
机の上には、封印箱が置かれている。鞄から出し、白花の布で包み直していたものだ。
箱の封印札は破れていない。
けれど、札の端が薄く灰色に曇っていた。
ミラは息を呑む。
「封は保っています。でも……」
「床だ」
エリオットが短く言った。
ミラは視線を落とした。
木の床板の隙間から、ほんの薄い黒い靄が滲んでいた。
水が染み出すように。
影が這い上がるように。
それはまっすぐ封印箱へ向かっているわけではなかった。
むしろ、部屋の空気を探るように、細く広がっている。
そして、その一筋が、ミラの足元へ伸びた。
「下がれ」
エリオットの声が飛ぶ。
ミラはすぐに一歩退いた。
黒い靄は、彼女がさっきまで立っていた場所を撫でるように通り過ぎる。
ぞくりとした。
昼間、集会所で足元へ伸びたものと同じ気配だった。
「また、私に反応している……?」
「たぶん」
エリオットは寝台から立ち上がろうとした。
ミラはすぐに言う。
「右腕は使わないでください」
「分かっている」
「立てますか」
「左手と杖なら」
「痛みは?」
「三」
「熱は?」
「上がっている」
「なら無理に動かないでください」
「だが」
「見るだけでお願いします」
その言葉に、エリオットは歯を食いしばった。
けれど、止まった。
右腕は動かさない。
ミラは胸元のペンダントを握り、白花を一枚取り出した。旅の道具袋に入れていた乾燥白花だ。そこへ祠の泉の水を一滴落とす。
白い光が、ごく弱く灯る。
だが、十分ではない。
今ここで大きな治癒魔法を使えば、昼間のように坑道側の何かを刺激するかもしれない。
ミラは息を整えた。
「押し返すのではなく、入れないようにします」
「結界か」
「簡易なものです。長くは持ちません」
彼女は白花を床へ置き、部屋の入口と窓辺、封印箱の周りに白石粉を少量撒いた。
白石粉は昨日リンドルで買ったものだ。十分な量ではないが、ないよりはいい。
黒い靄が白石粉に触れ、じ、と小さな音を立てる。
後退した。
ミラは胸を撫で下ろす。
けれど、靄は消えない。
部屋の外側を探るように、床下を這っている。
「エリオットさん、どこから来ていますか」
彼は目を細めた。
「村の西。坑道の方だ。風に乗っているというより、地面の下を伝っている」
「地面の下……」
「昼間、治療したせいで気づかれたのかもしれない」
ミラの喉がきゅっと詰まる。
自分の治療が患者を楽にした。
でも同時に、坑道の奥の何かを起こした。
その可能性が、胸を重くした。
「ミラ」
エリオットの声が低く響く。
「君のせいじゃない」
ミラは顔を上げた。
何も言っていないのに、見抜かれた。
「患者を治したから反応した。だが、治さなければ患者は苦しんだままだった」
「……はい」
「悪いのは、あれを仕込んだ者だ」
その言葉は、エリオット自身にも向けられているようだった。
自分が弱かったから右腕を失ったのではない。
誰かが、悪意を持ってそうしたのだ。
ミラは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「事実だ」
エリオットは短く答えた。
その瞬間、黒い靄が少し濃くなった。
床下で渦巻く。
封印箱の札が、また一段灰色へ近づいた。
エリオットの右手の指がわずかに動く。
ミラはすぐに言った。
「エリオットさん」
「……分かっている」
彼は左手で右腕の上から改良帯を押さえた。
「使わない」
声は苦しそうだった。
それでも、止めている。
ミラは封印箱へ手をかざした。
箱を開けてはいけない。
けれど、外側から封を補うことはできる。
白花の光を細く、箱の周囲へ流す。
守るための光。
戻すためではなく、触れさせないための光。
黒い靄が、箱へ近づくのをやめた。
そして、ゆっくりと床下へ沈んでいく。
部屋に満ちていた圧迫感が、少しずつ薄れた。
エリオットは長く息を吐いた。
「去った……いや、下がっただけだ」
「はい」
ミラも同じように感じていた。
あれは消えたのではない。
こちらを見て、触れて、反応を確かめてから、引いただけ。
まるで、偵察のように。
「今夜は眠れませんね」
ミラが呟くと、エリオットはすぐに言った。
「君は眠れ」
「エリオットさんも患者です」
「交代でいい。俺が先に起きている」
「右腕が熱を持っています」
「見張るだけなら右腕は使わない」
「でも」
「ミラ」
エリオットは静かに彼女を見た。
「君が倒れたら、明日の患者を診られない」
それは、昼間ミラが彼に言った言葉と同じだった。
ミラは返す言葉をなくした。
やがて、小さく頷く。
「……では、一刻だけ休みます。その後、交代です」
「ああ」
「痛みが四になったら起こしてください」
「分かった」
「黒い靄が戻っても」
「分かった」
「本当に」
「本当に」
いつもの確認。
けれど今夜は、その繰り返しが少しだけ心を落ち着かせた。




