風上の診療所 1
集会所から患者を移すことは、思ったよりも大変だった。
グレイル村の者たちは、皆どこかしら疲れている。
咳をする者は多く、微熱で足元の覚束ない者もいる。
それでも村長の指示が出ると、動ける者たちは互いに肩を貸し、集会所の椅子や毛布を運び出した。
ミラが新しい診療場所に選んだのは、村の東側にある空き家だった。
坑道は村の西にある。
風は西から東へ流れているが、空き家は少し高台にあり、窓を開ければ風が抜ける。集会所のように床下へ冷たい気配が溜まっている感じもない。
ミラはまず、村長に言った。
「患者さんを入れる前に、作業着と靴を確認します。坑道や石切り場で使ったものは、家の中へ持ち込まないでください」
村長が目を丸くする。
「服もですか?」
「はい。粉が付いている可能性があります」
隣でエリオット・バーンスタンが低く付け加えた。
「黒い気配が、服の裾と靴底に残っている者がいる」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
ミラはすぐに声を落ち着かせる。
「怖がらせたいわけではありません。ですが、咳の原因が坑道や作業場の粉に混じっているなら、家の中へ持ち込むと症状が続きます。外で払って、可能なら洗いましょう」
それから彼女は、村の女性たちに湯と布を用意してもらい、入口の外に簡易の洗い場を作った。
作業靴の底を洗う。
外套をはたく。
黒ずんだ粉が多く付いた布は、別にまとめる。
子どもは近づけない。
治療を始める前にやることが多すぎる。
それでも、ミラは焦らなかった。
目の前の症状だけを治しても、原因をそのまま家へ持ち込めば、また悪くなる。
治療は、傷口に魔法をかけることだけではない。
何が患者を悪くしているのかを見つけ、そこから離すこともまた治療だ。
エリオットは空き家の入口近くに立っていた。
右腕は改良帯で固定している。
左手には杖。
顔色は悪くないが、集会所で黒い気配に反応したせいで、右腕にはまだ熱が残っていた。
ミラは患者を診る前に、彼を椅子へ座らせた。
「まず、あなたの腕です」
「患者たちが先だろう」
「あなたも患者です」
「だが」
「ここで倒れられたら、私は患者さんたちを診ながらあなたも診ることになります。結果的に全員の治療が遅れます」
エリオットは言葉に詰まった。
ミラは容赦なく続ける。
「なので、先に診ます」
「……分かった」
彼は素直に右腕を差し出した。
以前なら、きっともっと抵抗した。
今は、理屈で必要だと分かれば従う。
ミラはそれを記録したい衝動を抑えつつ、手首から肘までを確認した。
「痛みは?」
「三。時々四に近い」
「熱は肘の手前まで。右手が動きかけた反動ですね」
「ああ」
「痺れは?」
「薬指と小指。親指と人差し指は、逆に少し動きやすい」
ミラは手を止めた。
「動きやすい?」
「黒い気配が出た瞬間だけだ。今は戻っている」
ミラは慎重に彼の指を見た。
親指がわずかに曲がる。
人差し指も、ゆっくり反応する。
中指は遅れ、薬指と小指は震えるだけ。
以前より劇的によくなったわけではない。
けれど、黒い気配に反応した時、右手が動こうとした。
それは危険な兆候でもあり、回復の兆候でもある。
「今は無理に動かしません」
「分かっている」
「今日、あなたの役割は“見ること”です。黒い気配の位置を教えてください。断とうとしないでください」
「ああ」
「右腕に力が入ったら、すぐ言ってください」
「言う」
「痛みが四になったら、休止です」
「……分かった」
ミラは彼の手首に湿布を当て、改良帯の位置を少し調整した。
「これで少し熱が落ちるはずです」
「助かる」
その短い礼が、自然に出た。
ミラは少しだけ微笑んだ。
「では、お願いします。エリオットさん」
彼は頷いた。
「任せてくれ」
剣を握れない手で。
まだ熱を持つ右腕を抱えたまま。
それでも、その言葉は確かに騎士のものだった。
今週も引き続き平日も一日三回、7:00/14:00/19:30に更新していきます!
物語の続きを楽しみにしていただけると幸いです




