西の鉱山道へ 3
宿へ戻ると、ミラはすぐに封印箱を確認した。
箱の外側に貼った封印札は乱れていない。
白花の布も冷えていない。
だが、ペンダントの温もりは朝よりわずかに強かった。
エリオットの護符も同じだった。
「西へ向かうと反応が強くなるのかもしれません」
ミラは記録帳に書き込んだ。
「核の出どころが西にあるなら、あり得るな」
「あるいは、同じものが西にある」
「黒い幌の荷馬車」
「はい」
ミラはペンを止めた。
「明日、グレイル村へ向かいます。ただし、封印箱の反応が強くなったら、途中で止まります」
「分かった」
「馬車の揺れも確認します。改良帯があるとはいえ、鉱山道は悪路です」
「分かっている」
「痛みが三を超えたら言ってください」
「言う」
「見られている気配があれば」
「言う」
「黒い気配があれば」
「言う」
「……本当に慣れましたね」
ミラが少し笑うと、エリオットは肩をすくめた。
「言わなければ君に聞かれる」
「はい」
「なら、先に言う方が早い」
「とても良い判断です」
「褒めるな」
「褒めます」
そのやり取りのあと、部屋に少しだけ静けさが落ちた。
窓の外では、リンドルの町が夕暮れに沈んでいく。
黒い幌の荷馬車が向かった西門の方角は、赤い雲の下にぼんやり霞んでいた。
ミラは帳面を閉じる。
「エリオットさん」
「何だ」
「怖くありませんか」
問いは、自然に口から出た。
エリオットは少しだけ目を伏せた。
「怖い」
正直な答えだった。
「黒いものが、俺の腕に残っているものと似ている。西へ行けば、何か分かるかもしれない。だが、それは俺の腕を壊したものに近づくということでもある」
「はい」
「怖くないわけがない」
ミラは黙って聞いていた。
エリオットは続ける。
「だが、知らないままでは治らない気がする」
「私もそう思います」
「それに、グレイル村で咳や熱に苦しんでいる人がいるなら」
彼は一度言葉を切った。
「君は行くだろう」
「はい」
「なら、俺も行く」
ミラは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「治療のためです」
「ああ」
「調査のためでもあります」
「ああ」
「でも、無理はしません」
「それが一番大事なんだろう」
「はい」
エリオットは小さく頷いた。
「分かっている」
翌朝、二人は西門へ向かった。
石材を運ぶ馬車は、すでに門のそばで待っていた。荷台には切り出された石材と木箱が積まれ、その隅に二人が座れる場所が用意されている。
御者は太い腕の男で、ミラを見るなり言った。
「グレイルまでだって? 道が悪いぞ」
「承知しています。途中で休憩を入れていただけますか」
「もちろん。石が跳ねると困るからな」
ミラはエリオットの右腕を確認した。
「痛みは?」
「一」
「熱は?」
「ほとんどない」
「封印箱の反応は?」
「少し温かい。強くはない」
「では、出発可です」
エリオットは荷台へ上がる前に、町の方を一度振り返った。
リンドルの広場。
魔道具屋。
倉庫街。
黒い幌の荷馬車が残した痕跡。
ここにはまだ、分からないことが多すぎる。
けれど、止まっていても何も進まない。
ミラが荷台へ上がる時、エリオットは左手で彼女の鞄を支えた。今度はミラも何も言わなかった。
「ありがとうございます」
「ああ」
馬車が動き出す。
車輪が石畳を離れ、土の道へ入る。
リンドルの町が少しずつ遠ざかっていく。
ミラは鞄の上から封印箱の位置を確かめた。
黒い核は静かだ。
静かすぎるほどに。
二人がリンドルを出てから、半刻ほど後。
リンドルの魔道具屋に、王都からの職人便が到着した。
店主は荷を受け取り、送り主の名を見て眉を上げた。
――オリヴァー・コックス工房。
「早いな」
彼は小箱を奥へ運び、添えられた書き付けを読んだ。
ミラ・コックスへ。
不在時は預かり、次便で転送相談。
危険物携行用補助具。
店主の表情が変わった。
「……まずいな」
彼は表へ出て、宿の方角を見た。
ミラと右腕を負傷した青年は、今朝、グレイル方面へ出たと聞いたばかりだ。
西の鉱山道。
黒い幌の荷馬車が向かった方角でもある。
店主は舌打ちした。
「入れ違いか」
すぐに職人便の配達人を呼び止める。
「この荷、追送できるか」
「どこへ?」
「グレイル村。西の鉱山道手前だ。急ぎで頼む」
「今日の便はもう出ない。明日の朝、炭焼きの荷馬車がそっちへ行く」
「それでいい。いや、よくはないが、それしかない」
店主は小箱を見下ろした。
「オリヴァーさんの娘さん、どうやら厄介なものを抱えているらしい」
その呟きに、配達人は怪訝そうな顔をしたが、何も聞かなかった。
その日の夕方。
リンドルの西門近くに、一人の男が現れた。
倉庫街でミラとエリオットを見ていた、黒い幌の荷馬車の下働きだった。
男は厩番に数枚の銅貨を握らせ、尋ねた。
「若い治療師と、右腕を悪くした大男を見なかったか」
厩番は少し迷った。
だが銅貨を見て、口を開く。
「ああ、今朝出たよ。グレイル方面の石材馬車に乗って」
「グレイルか」
男は薄く笑った。
「ちょうどいい」
彼は西の道を見た。
遠く、鉱山道へ続く灰色の雲が垂れ込めている。
男はその方角へ歩き出した。
ミラとエリオットはまだ知らない。
父の道具が一日遅れて後を追っていることも。
王都の敵が二方向から足跡を辿り始めたことも。
そして、彼らが向かうグレイル村が、ただ治療を必要としているだけの村ではないことも。
馬車は西へ進む。
黒い核は、箱の中で静かに眠っている。
だが、その眠りの奥で、ほんのかすかに、黒い筋が脈を打った。




