西の鉱山道へ 2
リンドルの町役場は、広場に面した石造りの建物だった。
旅治療師が次の依頼を確認するには、町役場か薬種屋、あるいは宿屋の主人に聞くのが早い。
ミラが名乗ると、受付の中年女性はすぐに帳簿を開いた。
「ミラ・コックスさんですね。ああ、次の依頼がいくつか残っていますよ」
「近隣の村ですか?」
「ええ。東の小村が一件。南の農村が二件。あと……西の鉱山道の手前、グレイル村からも相談が来ています」
ミラとエリオットは、ほぼ同時に顔を上げた。
「グレイル村?」
「昔の採掘場に近い村です。今は鉱山自体はほとんど閉じていますが、石切りや炭焼きで暮らしている人がいます」
「症状は?」
「咳と微熱が続く者が増えているそうです。特に坑道跡の近くで作業した人に多いとか。薬草ではあまりよくならないと」
ミラの指が、帳面の端を強く押さえた。
咳。
微熱。
坑道跡。
西の鉱山道。
黒い幌の荷馬車が向かった方角と重なる。
ただの鉱山病かもしれない。
古い坑道の埃や湿気が原因かもしれない。
けれど、今の二人には、もうそれだけでは済ませられなかった。
「その依頼はいつ来ましたか」
「三日前です」
「黒い幌の荷馬車が町へ来た時期と近いですね」
ミラが小さく呟くと、受付の女性が首を傾げた。
「何か?」
「いえ。確認です。グレイル村へ行く道は安全ですか?」
「昼間なら大丈夫です。ただ、古い鉱山道は道が悪いので、荷馬車だと揺れます。右腕に怪我をされているなら、少し注意が必要ですね」
受付の女性はエリオットの腕を見て言った。
エリオットは少しだけ目を伏せた。
ミラはすぐに答える。
「移動は状態を見ながら判断します。グレイル村へ行く乗合馬車はありますか?」
「毎日はありません。明日の朝、石材を運ぶ馬車が出ます。途中までなら乗せてもらえるはずです」
「では、その便を確認します」
ミラは依頼の写しを受け取った。
紙には、グレイル村長の名と、簡単な症状、滞在希望日数が書かれている。
希望滞在は三日から五日。
ミラはそれを見て、静かに息を吸った。
「行きましょう」
エリオットが言った。
ミラは彼を見る。
「追跡ではありません」
「ああ」
「治療依頼です」
「分かっている」
「黒い馬車のことは、情報として頭に置くだけです。危険だと思ったら引き返します」
「分かった」
エリオットは少し間を置いて、もう一度言った。
「分かっている。だから、行こう」
その声は、焦りだけではなかった。
自分が何かを見つけられるかもしれない。
そして、誰かを助けられるかもしれない。
その両方が混じっていた。
町役場を出た後、二人は薬種屋と食料品店を回った。
グレイル村は鉱山道の手前にあるため、薬草が不足している可能性が高い。ミラは咳止めに使う薬草、喉の炎症を抑える葉、肺に負担をかけない蒸気薬の材料を買い足した。
エリオットは荷物を見て眉を寄せる。
「重くなる」
「必要なものです」
「俺が持つ」
「左手と背負い袋で持てる範囲ならお願いします。ただし、封印箱とは別にしてください」
「分かった」
エリオットは以前よりも、荷物の持ち方をよく考えるようになっていた。
右腕を使わない。
左肩だけに負担をかけない。
杖と荷物の重さのバランスを見る。
ミラが何度も注意してきたことを、彼は少しずつ自分で判断し始めている。
それが嬉しい。
だが、ミラは同時に、少し怖くもあった。
エリオットが回復している。
守護騎士の力も、少しずつ反応している。
黒い核は、その力に呼応する。
そして、黒い幌の荷馬車の痕跡は、西へ続いている。
前へ進めば進むほど、何かに近づいている気がした。
何か危険なものに。
「ミラ」
エリオットの声で、彼女は我に返った。
「はい」
「顔色が悪い」
「……考え事をしていました」
「休むか」
「大丈夫です」
そう言った瞬間、エリオットの眉が動いた。
ミラはすぐに言い直す。
「いえ、少し休みます」
エリオットは驚いたように目を瞬いた。
「珍しいな」
「兄に、私自身の睡眠と食事も記録対象に入れろと言われそうな気がして」
「家族なら実際に言いそうだな」
「はい」
二人は広場の端のベンチに座った。
エリオットは左手で水筒を差し出す。
「飲め」
「ありがとうございます」
「治療師も水分を取るべきだ」
「言い方が私みたいです」
「君に言われ続けたからな」
ミラは少し笑った。
エリオットは、広場の人混みへ視線を向ける。
その表情が、ふっと硬くなった。
「どうしました?」
「また、見られている気がする」
ミラは水筒を持つ手を止めた。
「昨日の倉庫街の男ですか」
「分からない。視線だけだ。今は消えた」
「動かないでください」
「ああ」
エリオットは、以前なら立ち上がっていたかもしれない。
今はそうしない。
ミラも振り返らなかった。
広場の向こうでは、商人が荷を積み、子どもがパンを抱えて走り、旅人が宿を探している。
その中に、誰かがいるのかもしれない。
ただの思い過ごしかもしれない。
だが、二人はもうそれを軽く扱えなかった。
「宿へ戻りましょう」
ミラは静かに言った。
「買い物は?」
「必要なものは揃いました。あとは明日の馬車の確認だけです。宿の主人に頼めるかもしれません」
「分かった」
エリオットは立ち上がる時、自然に周囲を見た。
騎士だった頃の目。
人の流れ。
逃げ道。
怪しい動き。
荷馬車の位置。
そして、ミラの立つ場所。
彼は何も言わなかったが、歩く位置を少し変えた。
ミラの右後ろ。
何かあれば、左手で彼女を庇える位置。
ミラはそれに気づいた。
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れる。
「エリオットさん」
「何だ」
「右腕は使わないでくださいね」
「……分かっている」
「庇うなら左手と身体で。無理なら逃げます」
「君は本当に、そこまで見るんだな」
「治療師なので」
「便利な言葉だ」
そう返す声は、少しだけ柔らかかった。




