西の鉱山道へ 1
リンドルの町で迎えた朝は、妙に静かだった。
街道沿いの町らしく、早朝から荷馬車の音や商人の声が聞こえるはずなのに、その日は雲が低く、音までも湿った布で包まれたように鈍く響いていた。
ミラは宿の小さな部屋で、封印箱の確認をしていた。
鉛銀張りの小箱。
白石を敷いた内側。
追加で貼った封印札。
箱を包む白花入りの布。
その中に、黒い核がある。
ミラは箱に手をかざした。
胸元の白花のペンダントが、ほんの少し温かい。
「……昨日より、少しだけ反応が強い?」
独り言のように呟いた時、扉が叩かれた。
「ミラ、起きているか」
「はい。どうぞ」
入ってきたエリオットは、先日仕立ててもらった改良帯を身につけていた。外套の下に隠れてはいるが、右腕の位置が以前より安定している。
「腕の具合はどうですか?」
「悪くない。肩が少し楽だ」
「それはよかったです。痛みは?」
「一。動かすと二」
「熱は?」
「ほとんどない。ただ……」
エリオットは封印箱へ目を向けた。
「その箱に近づくと、護符が少し温かい」
ミラは頷いた。
「こちらも同じです。昨日よりわずかに反応があります」
「漏れているのか」
「箱の外へ出ている感じではありません。ただ、中で眠りが浅くなっているような……」
ミラは言いながら、自分でも曖昧な表現だと思った。
けれど、他に言いようがなかった。
黒い核は暴れているわけではない。
封印は効いている。
それなのに、確かに以前より存在感がある。
まるで、遠くから誰かに呼ばれて、うっすら目を開けかけているような。
「今日は移動しない方がいいか」
エリオットが尋ねた。
ミラは少し考えた。
「本当は、もう一日くらいはリンドルで様子を見たいです。ただ、ここに長くいるのも危険かもしれません」
「黒い幌の馬車か」
「はい」
昨日、二人はその痕跡を見つけた。
旧道から来た黒い幌の荷馬車。
黒布に包まれた重い箱。
三番倉庫で一箱だけ下ろし、その後、西の鉱山道へ向かったという証言。
そして、倉庫街で自分たちを見ていた男。
ミラは帳面を開いた。
「今日の予定を決めましょう。まず、午前中に次の治療依頼を確認します。午後は必要最低限の追加買い物と、エリオットさんの改良帯の具合の確認。問題がなければ、明日の朝、町を出ます」
「行き先は?」
「それを今日決めます」
「黒い幌の馬車を追うのか」
エリオットの声には、抑えた緊張があった。
ミラは首を横に振った。
「追いません」
「だが、西の鉱山道へ向かった」
「はい。でも、私たちは追跡者ではありません。戦う準備もありません。黒い核の封印も不安定です」
「そうだな」
エリオットは短く答えた。
その声には悔しさが残っていた。
ミラは少しだけ表情を和らげる。
「ただし、西の鉱山道方面に治療を必要としている村があるなら、話は別です」
エリオットが顔を上げた。
「治療依頼として向かう」
「はい。私たちの目的は治療です。その道中で情報を集めることはできます。でも、黒い馬車だけを追うのは危険です」
エリオットはミラを見つめた。
それから、小さく息を吐く。
「君らしい判断だ」
「慎重すぎますか?」
「いや」
彼は右手首の護符に左手を添えた。
「その方が、俺も止まれる」
ミラは少しだけ目を瞬いた。
その言葉は、彼自身が自分の焦りを理解している証だった。
かつてなら、エリオットはきっと「行ける」と言った。
痛みを隠し、無理をしてでも前へ進もうとした。
でも今は、自分が止まるための理由を受け入れようとしている。
ミラは静かに頷いた。
「では、今日も記録します」
「何を」
「止まれるようになったことを」
「……それは、もう好きにしてくれ」
エリオットは諦めたように言った。
けれど、口元は少しだけ緩んでいた。




