指が動いたという手紙 2
その日の午後、バーンスタン家に一人の男が訪ねてきた。
騎士団の事務官を名乗る男だった。
年は三十代半ば。整った制服を着て、物腰は丁寧だが、目だけが妙に冷静だった。
「突然の訪問、失礼いたします。騎士団記録室の者です」
マルクが店先で応対した。
「何のご用でしょう」
「エリオット・バーンスタン殿について、療養状況の確認を行っております。二年前の退団者記録の整理がありまして」
アンナは奥からその声を聞いていた。
胸が嫌なふうに鳴る。
騎士団が、今さら療養状況を?
マルクの声は変わらなかった。
「息子は故郷で療養中です」
「現在も?」
「ええ」
嘘ではない。
少なくとも、詳しい居場所を知っているわけではない。
エリオットは村を離れると書いたが、今どこにいるかは分からない。
男は微笑んだ。
「最近、右腕の具合に変化があったという話を耳にしまして」
アンナの手が震えた。
どこから。
手紙は今日届いたばかりだ。
誰にも話していない。
マルクは表情を変えなかった。
「誰から聞いた話ですか」
「いえ、療養地周辺でそのような噂があるとか。騎士団としても、元所属騎士の状態確認は必要ですので」
「息子は退団しました」
「もちろん承知しております。しかし、将来有望だった騎士です。もし回復の兆しがあるなら」
「息子は療養中です」
マルクの声が、少しだけ低くなった。
「それ以上、こちらから申し上げることはありません」
男は一瞬だけ目を細めた。
だが、すぐに丁寧な笑みへ戻る。
「ご心配はもっともです。では、エリオット殿からご連絡がありましたら、騎士団記録室へ一報いただけますか」
「必要があれば」
「ありがとうございます」
男は軽く頭を下げ、店を出ていった。
足音が遠ざかる。
アンナはしばらく動けなかった。
やがて、マルクが奥へ入ってくる。
その顔は、静かに険しかった。
「あなた」
「エリオットの手紙のことは、誰にも言わないほうがいい」
「ええ」
「指が動いたことも」
「……ええ」
「騎士団が今さら療養状況を聞くのは不自然だ」
アンナは両手を握りしめた。
「エリオットは、誰かに目をつけられている?」
「分からない。だが、少なくとも息子の状態を探る者がいる」
「そんな……」
「返事を書こう」
マルクはすぐに言った。
「エダさん宛てに。エリオットがもう村を出ているなら、転送してもらえるかもしれない。治療師さんにも伝わるように書く」
「でも、手紙が読まれたら」
「だから、直接は書かない」
マルクは机に向かった。
アンナも隣に座る。
返事は、家族の手紙として書く必要があった。
けれど、その中に警告を込めなければならない。
アンナは最初の一文を書くまでに、長い時間をかけた。
――エリオットへ。
――手紙を読みました。
そこまで書いただけで、涙が滲む。
でも泣いている場合ではない。
彼女はゆっくりと続けた。
――指が動いたと知って、何度も何度も読み返しました。あなたがその一文を書ける日が来たことを、母は心から嬉しく思っています。
――けれど、どうか焦らないでください。治療師さんの言うことをよく聞いて。あなたはすぐ無理をする子です。
マルクが横で小さく頷いた。
「そこは強く書いていいんじゃないか」
「ええ」
アンナはさらに書く。
――信頼できる治療師さんに、母からも深くお礼を伝えてください。あなたの指が動いたことは、私たちにとって大きな希望です。
そこで筆が止まる。
警告をどう入れるか。
マルクが低く言った。
「“王都では古い知人が息子の近況を尋ねてきた”くらいでいい」
「それで伝わるかしら」
「エリオットなら分かる。治療師さんも、慎重な人なら察する」
アンナは頷き、筆を進めた。
――王都では、あなたの古い知人を名乗る方が近況を尋ねてきました。悪意があるとは限りませんが、今は誰にでも詳しいことを話さない方がよいと思います。
――旅先でも、親切そうに見える人が皆、味方とは限りません。母の心配しすぎなら、それでいいのです。
マルクはそれを読み、静かに頷いた。
「いいと思う」
そして、自分の追伸を書き加えた。
――父より。
――焦るな。剣は逃げない。
――お前が戻る場所も、なくならない。
――必要なら、故郷のエダさんを頼れ。あの人は余計なことを話さない。
――治療師さんを信じるなら、その人を守ることも忘れるな。ただし、今のお前にできる形で。
アンナはその追伸を見て、目元を押さえた。
「あなた……」
「言いすぎたか」
「いいえ。きっと、あの子に必要な言葉だわ」
マルクは黙って封筒を用意した。
宛先は、エリオットの故郷の村。
エダ宛て。
ただし、表向きは「療養中の息子への家族便」として送る。
中身を見られても、はっきりとした情報は少ない。
だが、エリオットが読めば分かるはずだ。
王都で誰かが探っている。
気をつけろ。
その夜、マルクは信頼できる馬具商の便を使い、手紙を故郷の村へ送った。
騎士団便は使わなかった。
アンナは封をした手紙に、そっと手を当てた。
「届きますように」
マルクも短く頷いた。
「届く。時間はかかっても」
「エリオットは、もう村にはいないのよね」
「おそらく」
「エダさんなら、次に向かった場所を知っているかしら」
「知っているだろう。少なくとも、方角くらいは」
アンナは小さく息を吐いた。
「でも、それは敵にも辿れるということよね」
マルクは答えなかった。
沈黙が答えだった。
エダは口の堅い人だ。
村人も、エリオットと治療師を守ろうとするだろう。
だが、時間をかければ足跡は辿れる。
古書商。
宿場町。
荷馬車。
治療を必要とする村。
旅治療師の足跡は、完全には消せない。
マルクは拳を握った。
「だからこそ、あいつが自分で気づく必要がある」
「エリオットが?」
「ああ。もう、守られるだけではいられない。あいつは自分の道を進み始めた。なら、危険も自分で見なければならない」
「でも、まだ右腕が」
「だから治療師さんがいる」
マルクは静かに言った。
「そして、あいつもその人を信じると書いた」
アンナは目を伏せた。
信頼できる治療師。
その一文が、母としてはとてもありがたかった。
エリオットが誰かを信頼している。
それだけで、二年間閉ざされていた扉が少し開いた気がした。
一方、王都騎士団の記録室では、先ほどバーンスタン家を訪ねた男が短い報告書を書いていた。
――バーンスタン家訪問。
――父マルク、警戒強し。
――母アンナ、動揺あり。
――右腕回復の確証得られず。
――最近の便りの有無、確認できず。
――故郷療養中との回答。
男は筆を止めた。
アンナの顔は、何かを知っている者の顔だった。
手紙が届いたのかもしれない。
しかし、父マルクに遮られた。
男は報告書の末尾に一行足した。
――家族便の監視、検討。
その紙は折り畳まれ、記録室の正式な箱ではなく、机の下に隠された黒い封筒へ入れられた。
翌日、ユアンはその違和感を拾った。
騎士団内で、バーンスタン家への非公式訪問があったという噂が、ほんの小さく流れていたのだ。
正式命令ではない。
記録にも残っていない。
だが、動いた者がいる。
ユアンはすぐにライヘルへ伝えるべきだと判断した。
ただし、騎士団便では送れない。
彼は訓練場の隅で、短い符号文を書いた。
――元騎士Eの家族に接触あり。
――記録室名義。正式命令なし。
――家族は詳細を話さず。
――家族便が今後監視される可能性。
その文を、彼はいつもの連絡経路ではなく、古い知人の文具商に預けた。
ライヘルが受け取る頃には、もうマルクとアンナの手紙は王都を出ているだろう。
届くかどうかは分からない。
だが、ユアンは思った。
エリオット。
お前の家族も、もう静かな場所にはいられないかもしれない。
その頃、エリオットの故郷の村では、エダが祠の前に立っていた。
朝の白い光が、古い石の上に降りている。
彼女は、遠く王都の方角を見た。
何かが近づいている。
まだ姿は見えない。
けれど、風の匂いが変わっている。
エダは杖を握り、静かに呟いた。
「あの子たち、少し急いだ方がいいかもしれないね」
その声に答えるように、祠の白花が小さく揺れた。
村を出たミラとエリオットの足跡は、まだ完全には消えていない。
そして、王都から伸びる黒い手もまた、少しずつその足跡を探り始めていた。




