指が動いたという手紙 1
王都の西区にある小さな仕立て屋の奥で、アンナ・バーンスタンは針を止めた。
店先では、昼の陽を受けて淡い布地が揺れている。
窓際には、仕立て途中の子ども用の上着。椅子の背には、修繕を頼まれた外套。
いつもなら、アンナは手を止めない。
客の服を縫いながら、隣の工房で働く夫の帰りを待つ。それが、この数年間続いてきた日常だった。
けれど今日は違った。
手の中にある一通の手紙が、どうしても針仕事へ戻ることを許してくれなかった。
差出人は、エリオット。
息子からの手紙だった。
アンナは震える指で、もう何度目か分からないほど、その一文をなぞった。
――まだ剣を握れるわけではありません。
――けれど、指が動きました。
「……指が」
声に出した途端、涙がこぼれた。
エリオットが王都の治療院で「これ以上の回復は望めない」と告げられた日のことを、アンナは今でもはっきり覚えている。
息子は泣かなかった。
ただ、右腕を見下ろしていた。
血の気の失せた顔で、何も言わずに。
その姿が、アンナには何よりつらかった。
母親として抱きしめたかった。
泣いていいと言いたかった。
家で一緒に暮らせばいいと言いたかった。
けれどエリオットは、まるで自分自身を罰するように、すべてを飲み込んでしまった。
その息子が、書いたのだ。
指が動きました、と。
奥の扉が開き、夫のマルク・バーンスタンが入ってきた。
鍛えられた手に、革と金具の匂いが染みついている。王都で馬具や武具の調整を請け負う職人で、寡黙だが腕は確かな男だった。
マルクは妻の顔を見て、すぐに察した。
「……何か知らせが届いたのか」
アンナは頷き、手紙を差し出した。
マルクは何も言わずに受け取り、ゆっくり読んだ。
父上、母上。
しばらく村を離れることにしました。
右腕に少し変化があり、治療を続けるためです。
無理な旅ではありません。信頼できる治療師が状態を見てくれています。
まだ剣を握れるわけではありません。
けれど、指が動きました。
詳しいことは、落ち着いたらまた書きます。
どうか心配しすぎないでください。
マルクは最後まで読み終えても、すぐには口を開かなかった。
ただ、もう一度最初から読み返した。
そして、二度目を読み終えてから、小さく息を吐いた。
「……エリオット。あいつが、自分から治療を続けると書いたのか」
アンナは涙を拭いながら頷いた。
「ええ」
「右腕に少し変化がある、と」
「ええ」
「信頼できる治療師」
「手紙には名前はないけれど、村から届いた添え書きに、旅治療師さんが一緒だと」
マルクは手紙の紙質や封の跡を確認した。
「騎士団便ではないな」
「ええ。村を通る古書商の便だそうよ。エダさんが手配してくれたのかもしれないわ」
「エダさんか」
その名を聞いて、アンナは胸元を押さえた。
エリオットの故郷にいる老女。
村の伝承や祠に詳しく、アンナが護符を頼んだ相手でもある。
王都の治療師が匙を投げた後、アンナは故郷へ手紙を出した。
どうか、あの子に何か守りを。
治らなくてもいい。
せめて、これ以上壊れないように。
そしてエダから届いたのが、白花と剣の紋の護符だった。
エリオットは迷信だと言いたげな顔をしたが、外さなかった。
母が泣きそうな顔で渡したからだろう。
「本当に、守ってくださっていたのかしら」
アンナは小さく呟いた。
マルクは手紙を丁寧に畳み直した。
「護符だけではないだろう。治療師がいる」
「ええ」
「だが、普通ではない」
マルクの声は低かった。
アンナは顔を上げる。
「あなた?」
「王都治療院から治療不可だと匙を投げられ、二年治らなかった腕だ。指が動いたなら、ただの回復ではない」
「……そうね」
「喜ぶべきことだ。だが、同時に慎重になるべきだ」
マルクは手紙を机に置いた。
「エリオットは、詳しいことは落ち着いたらと書いている。つまり、今は詳しく書けない事情があるのかもしれない」
アンナの表情が不安に曇る。
「もしかして、何かに巻き込まれているの?」
「分からない」
「でも、村を離れるなんて。まだ右腕も」
「治療のためだと書いてある」
「ええ。でも……」
アンナは唇を噛んだ。
母としては、すぐにでも息子のもとへ向かいたかった。
指が動いたなら、この目で見たい。
治療師に礼を言いたい。
もう無理をしないでと抱きしめたい。
けれど、エリオットは王都へ戻るとは書かなかった。
村を離れ、治療を続けると書いた。
それはつまり、王都ではない場所に、まだ彼の道があるということだ。




