曇る反応針 1
オリヴァーは、夜明け前にもう一度、封印庫の前に立った。
工房の奥は静かだった。
表の作業場には誰もいない。弟子たちが来るまでには、まだ少し時間がある。
封印庫の扉は閉じている。
術式も乱れていない。
外へ瘴気が漏れた形跡もない。
それでも、扉の前に置いた反応針の先は、うっすらと曇っていた。
黒く変わってはいない。
震えてもいない。
第一段階。
観察継続。
自分でそう決めた基準を、オリヴァーは頭の中で確かめる。
「……まだ漏れてはいない」
小さく呟き、彼は封印庫の側面に手をかざした。
熱はない。
冷気もない。
ただ、封印庫の内側で何かがほんのわずかに脈打つような気配がある。
昨夜から何度か同じ反応があった。
一定の間隔ではない。
外部からの魔力干渉とも違う。
まるで、遠く離れたどこかにある同質のものへ、微かに呼びかけているような。
「標本Bだけの反応じゃないな」
オリヴァーは作業帳を開き、記録した。
――封印庫内標本B。
――反応針、薄曇り。黒変なし。震動なし。
――封印庫外への漏出なし。
――内側で微弱な周期反応あり。外部同系統触媒との共鳴可能性。
書いてから、彼は眉間を押さえた。
共鳴。
もしそうなら、問題は工房内だけでは終わらない。
ミラが持っている標本A。
それと、王都に届いた微量標本Bが、同じ術式、同じ瘴気の系統を通じて呼び合っているのだとしたら。
標本Aを持つミラの近くでも、何らかの異変が起きているかもしれない。
オリヴァーは深く息を吐いた。
「落ち着け。焦って開ける方が危ない」
自分に言い聞かせる。
彼は封印庫の周囲に、昨夜作った追加の隔離布を一枚広げた。さらに白石粉を細く撒き、扉の前に二本目の反応針を置く。
これで、外へ漏れればすぐ分かる。
それから、工房の表に出て、弟子用の机に札を置いた。
――奥の小部屋には入らないこと。
――急ぎの修理以外は午後に回すこと。
――ライヘルが来たらすぐ奥へ通すこと。
書き終えた時、工房の扉が叩かれた。
早すぎる。
オリヴァーは一瞬身構えたが、聞こえた声に肩の力を抜いた。
「父さん、僕です」
「ライヘル」
扉を開けると、ライヘルが立っていた。
顔色はよくない。
おそらく、彼もあまり眠っていない。
「昨日の標本、反応が出たんですか」
「薄い反応だ。まだ外には漏れていない」
「見せてください」
「開けないよ」
「分かっています」
即答だった。
オリヴァーは少しだけ苦笑し、息子を奥の小部屋へ通した。
封印庫の前に置かれた反応針を見て、ライヘルの表情が険しくなった。
「薄曇り……第一段階ですね」
「ああ。私がミラに送った説明書なら、観察継続の段階だ」
「でも、工房の封印庫でこの反応が出るのはおかしい」
「そうだね。標本B単体なら、ここまで保管すれば沈静化してもいいはずだ」
「つまり」
「どこかにある同系統の核と、微弱に共鳴している可能性がある」
ライヘルは押し黙った。
その「どこか」が、ミラの鞄の中かもしれない。
言葉にしなくても、二人とも同じことを考えていた。
「ミラへ送った道具は?」
「今朝の職人便に乗せた。リンドルの魔道具屋に届くまで、早くて三日」
「その頃には、ミラたちはもう次の場所にいる可能性が高い」
「分かっている」
「追送できますか」
「店主に預ける形にはした。不在なら、次の転送先を聞いて回すように頼んである。けれど、確実ではない」
ライヘルは唇を引き結んだ。
「現在地が分からないのが痛いですね」
「ミラは旅治療師だ。もともと、居場所が一つに固定される仕事ではない」
「だからこそ、敵にもすぐ見つからない」
「そう考えよう」
オリヴァーは静かに言った。
ライヘルは反応針を見つめたまま、低く答える。
「はい」
少しの沈黙の後、ライヘルは外套の内側から紙束を取り出した。
「昨日、フェンネル管理官が見つけた資料です。本文は抜かれていましたが、貸出影と分類番号が残っていました」
「セヴラン・ノックスの名前があった件だね」
「はい。それに加えて、押収品の移送補助に関する古い控えがありました」
ライヘルは紙を机に置く。
「二年前、南西辺境討伐任務後、押収品七点。分類名は“瘴気封入触媒”。王立魔術院付属保管庫へ移送予定」
「予定?」
「実際の保管記録がありません」
「途中で消えた」
「はい」
オリヴァーは目を細めた。
「移送に関わった者は?」
「騎士団側の補助欄に、頭文字だけ残っていました」
ライヘルは紙の一箇所を指で示した。
そこには、古い筆跡で短く記されていた。
――補助:V.G.
「心当たりの名前は?」
オリヴァーが聞く。
「まだ断定はできませんが、ヴィクトル・グレインという者が。ただ、ユアンに確認してもらう価値はあります」
「ガレスの名は?」
「出ていません。少なくともこの控えには」
「では、まだ上へ伸ばさない方がいいね」
「はい。ガレスの名前に直接触れるのは危険です」
オリヴァーは頷いた。
「セヴラン・ノックス、ヴィクトル・グレイン。研究院側と騎士団側にそれぞれ接点がある」
「そしてミラが拾った黒い欠片は、エリオットの右腕の瘴気と近い」
「偶然にしては、線が揃いすぎている」
ライヘルは、封印庫を見た。
「父さん。この標本Bは、工房に置き続けて大丈夫ですか」
「長期保管は避けたい」
「では」
「ただし、今すぐ別の場所へ動かす方が危険だ。魔術院へ持ち込むのは論外。王宮へ出すのも早すぎる。しばらくはここで抑える」
「父さん自身は」
「私は大丈夫だよ」
「大丈夫という人ほど危ないと、ミラなら言います」
オリヴァーは一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「それは手厳しい」
「僕もそう思います」
「では、こうしよう。封印庫の反応は一日三回記録する。薄曇り以上になったら、君とオルガ管理官に知らせる。黒変したら工房を一時閉める。震動したら、標本を第二隔離箱へ移す」
「第二隔離箱があるんですか」
「今から作る」
「父さん」
「だから、午前中の修理は全部午後に回す」
ライヘルは深く息を吐いた。
心配そうではあったが、止める言葉はなかった。
オリヴァーはもう決めている。
なら、止めるより安全策を増やす方がいい。
「分かりました。僕も手伝います」
「魔術院は?」
「午後に戻ります。先にフェンネル管理官へ伝言を出します」
「ユアン君へは?」
「今日中に連絡します。V.G.の確認と、当時の押収品移送の警備担当を調べてもらいます」
「慎重に」
「はい」




