指先から始める剣 1
翌朝、ミラは診療所代わりの空き家で、いつもより長く帳面と向き合っていた。
窓の外では、村人たちが畑へ向かう声が聞こえている。朝露を含んだ風が、吊るされた薬草の束を揺らし、乾いた葉がかさりと音を立てた。
机の上には、エリオット・バーンスタンの治療記録が開かれている。
右腕の魔力路損傷。
魔物由来と思われる黒い瘴気。
右腕の護符による抑制反応。
白花のペンダントとの共鳴。
指先の随意運動。
強い熱感。
木剣を握ろうとした際の痛みの増悪。
そして、昨夜書き加えた一文。
――黒い瘴気の奥に、白い刃状の光。護符由来ではない可能性。エリオット本人の魔力反応か。
ミラはその文字を見つめ、筆先を宙で止めた。
白い刃の光。
あれは何だったのだろう。
治癒の女神の加護は、白い花のような光を宿す。ミラの魔力も、昨夜エリオットの腕を鎮めた時、花弁がほどけるように広がった。
けれど、彼の腕の奥にあった光は違った。
細く、鋭く、まっすぐだった。
傷を包む光ではない。
何かを断つための光。
ミラは自分の右手を見下ろした。
この手ができることは、傷を診ること。痛みを見つけること。壊れた道を少しずつ戻すこと。
だが、エリオットの中にあるあの光は、ミラの手とは別のものだった。
「……まだ、決めつけちゃだめ」
ミラは小さく呟いた。
伝承。祠。護符。ペンダント。白い刃。
すべてが繋がりそうに見える。けれど、繋がりそうに見えるだけで、確証はない。
今、ミラがすべきことはひとつだ。
患者の状態を見極めること。
ミラは新しいページを開き、今日からのリハビリ計画を書き始めた。
木剣は禁止。
重いものを持つことも禁止。
訓練は一日二回まで。
痛みが増したら即中止。
指の屈伸、触覚確認、温度感覚、布をつまむ動作から開始。
魔力調整は短時間のみ。
そこまで書いて、ミラは少し考え、さらに一文を加えた。
――本人が焦りやすいため、必ず監督下で行うこと。
書き終えたところで、扉が叩かれた。
「はい」
返事をすると、扉の向こうから低い声がした。
「俺だ」
ミラは帳面を閉じ、立ち上がった。
扉を開けると、エリオットが立っていた。
昨日より顔色は良い。けれど、右腕は布で保護されたままだ。手首の護符は袖口の隙間から少しだけ見えている。
彼はミラを見るなり、ほんのわずかに目を逸らした。
「……昨日は、悪かった」
朝一番の謝罪だった。
ミラは少しだけ驚いたが、すぐに穏やかに頷いた。
「おはようございます。まずは診察します」
「謝罪は流すのか」
「受け取りました。ですが、右腕の確認が先です」
エリオットは何か言いたげに口を開き、結局閉じた。
「……強引だな」
「患者さんにはよく言われます」
「たぶん、あまり褒められていない」
「知っています」
そう答えると、エリオットの口元がほんの少し緩んだ。
小さな変化だった。
けれど昨日までの彼を思えば、それだけでも十分に大きな変化だった。
ミラは椅子を示す。
「座ってください」
エリオットは素直に腰を下ろした。
そのことにまた少し驚きながら、ミラは向かいに座り、右腕の布を外していく。
昨夜ほどの熱はない。赤みも少し引いている。
「痛みは?」
「まだある。だが、昨夜よりずっとましだ」
「痺れは?」
「指先に残っている」
「眠れましたか」
「少し」
「少し、ですか」
ミラが目を細めると、エリオットは視線を逸らした。
「……夜明け前には眠った」
「ほとんど眠れていませんね」
「眠れない時もある」
「今夜は眠れるように薬草茶を出します」
「必要ない」
「必要です」
「……分かった」
昨日の失敗が効いているのか、エリオットはそれ以上反論しなかった。
ミラはそのまま、指先の温度を確認する。
右手はまだ左手より少し冷たい。けれど、昨日までのような死んだような冷たさではない。
「親指を動かしてみてください」
エリオットは右手を見下ろした。
しばらく何も起きなかった。
彼の眉間に皺が寄る。
だが、ミラは急かさない。
やがて、親指がほんの少し内側へ曲がった。
「できました」
「これだけだ」
「これだけではありません。昨日より動きがはっきりしています」
「剣は握れない」
「今日は剣の話はしません」
ミラはきっぱり言った。
エリオットの顔が見るからに不満そうになる。
「木剣も禁止です」
「まだ何も言っていない」
「言いそうな顔をしていました」
「顔で判断するのか」
「治療師は患者さんの顔色を見ますので」
エリオットは黙った。
言い返せないらしい。
ミラは鞄から清潔な布を一枚取り出し、細く折った。それを机の上に置く。
「今日はこれをつまむ練習から始めます」
エリオットは布を見た。
それから、ミラを見た。
「……剣を握るために、布をつまむのか」
「はい」
「俺は子どもか」
「子どもでも大人でも、リハビリは段階を踏みます」
「布をつまむところから」
「はい。剣を握る手も、最初は指一本からです」
エリオットはかなり不服そうだった。
けれど、昨夜ミラの言いつけを破った負い目があるのだろう。低く息を吐き、右手を布へ伸ばした。
指先が布に触れる。
親指と人差し指で挟もうとする。
だが力が入らない。布はつまめず、指の間から滑った。
エリオットの表情が険しくなる。
「もう一度です」
ミラは静かに言った。
「焦らなくていいです。指先に布の感触があるか、まず確認してください」
「ある」
「硬いですか、柔らかいですか」
「……柔らかい」
「温度は?」
「冷たくはない」
「では、親指だけ少し曲げてください。次に人差し指。力を入れるのではなく、布を挟む形を作るだけです」
エリオットは言われた通りにした。
大きな手が、たった一枚の布をつまむために震えている。
かつて剣を振るい、魔物を討った手。
その手が今、薄い布一枚に苦戦している。
エリオットにとっては、きっと屈辱だろう。
ミラはそれを分かっていた。
だからこそ、同情するような顔はしなかった。
彼がしているのは、情けないことではない。
剣へ戻るための、最初の一歩だ。
「できました」
布の端が、わずかに指の間に挟まった。
持ち上げるほどではない。けれど、確かにつまめている。
エリオットは息を止めた。
ミラは小さく頷く。
「そのまま三つ数えます。一、二、三。離してください」
布が机に落ちる。
エリオットはしばらくその布を見つめていた。
「……これも、記録するのか」
「もちろんです」
「布をつまめた、と?」
「はい。大事な記録です」
ミラが真顔で答えると、エリオットは複雑そうな顔をした。
「騎士だった頃の俺が聞いたら、笑うだろうな」
「そうでしょうか」
「笑う」
「私は笑いません」
ミラは帳面に記録をつけながら言った。
「今のあなたが積み重ねたものを、過去のあなたが笑うとは思いません」
エリオットは何も言わなかった。
ミラは顔を上げる。
彼は布ではなく、自分の右手を見ていた。灰青色の瞳の奥に、悔しさと、それでも消えない小さな熱が揺れている。
「……君は、俺を騎士として扱うんだな」
ぽつりと落ちた言葉だった。
ミラは少しだけ首を傾げる。
「あなたが、もう一度剣を握りたいと言ったからです」
「今の俺を見ても?」
「今のあなたが、もう一度剣を握るために努力しているのを見ています」
エリオットはミラを見た。
その視線が、いつもより長く留まった。
ミラは急に落ち着かなくなり、帳面へ視線を戻す。
「次は、温度の確認をします」
「……分かった」
その後、ミラは温めた布と冷ました布を使い、指先の感覚を確かめた。親指と人差し指はわずかに反応がある。中指は鈍い。薬指と小指はほとんど分からない。
それでも、昨日よりは確実に変わっていた。
続いて、ミラは軽く魔力を流す。
エリオットの右手を両手で包み、目を閉じる。
また見えた。
黒い瘴気が、腕の奥で絡みついている。
焼け焦げた魔力路の隙間を塞ぐように、根を張っている。
その奥で、白い刃の光が眠っていた。
昨夜のように暴れてはいない。
けれど、黒い靄が近づくたびに、細く震える。
断とうとしている。
ミラは、そう感じた。
ただ、その光が通るべき道が壊れている。だから力が流れず、痛みや熱となって暴れてしまう。
ミラはゆっくりと魔力を引いた。
「どうした」
エリオットが尋ねる。
ミラは少し迷った。
ここで伝えるべきだろうか。
彼自身の中に、何か特別な光があるかもしれない、と。
けれど、まだ確証はない。
ただでさえエリオットは、自分の腕が治るかどうかで揺れている。そこへ伝説や血筋の話まで重ねるのは、負担が大きすぎる。
ミラは慎重に言葉を選んだ。
「黒い瘴気に抵抗する反応があります」
「抵抗?」
「はい。あなたの腕の中に、瘴気を押し返そうとしている力があるように見えます」
「護符の力か」
「最初はそう思いました。でも、少し違う気がします」
エリオットの眉が動いた。
「では、何だ」
「まだ分かりません」
ミラは正直に答えた。
「ただ、その力が通る道が傷ついているように見えます。だから私は、腕を無理に動かすのではなく、その力がきちんと流れる道を戻していく必要があるのかもしれません」
「つまり?」
「つまり、今日も木剣は禁止です」
エリオットは一瞬だけ黙り、それから深いため息をついた。
「結局そこに戻るのか」
「大事なことなので」
「……分かった」
不満はありそうだったが、今度はきちんと頷いた。
ミラは少し安心した。
その後も、短い訓練をいくつか続けた。
布をつまむ。
離す。
指先を曲げる。
温かさを感じる。
痛みの強さを言葉にする。
剣とはほど遠い。
けれど、エリオットは最後まで投げ出さなかった。
額に汗を浮かべ、何度も苛立ちを飲み込みながら、それでもミラの指示に従った。
すべて終わる頃には、彼の右腕は再び熱を帯びかけていた。
「今日はここまでです」
ミラが告げると、エリオットは今度は反論しなかった。
「……これで、剣に近づいているのか」
「はい」
ミラは迷わず答えた。
「少しずつですが、確実に」
エリオットは右手を見下ろした。
先ほど布をつまんだ指先が、まだ微かに震えている。
「少しずつ、か」
「はい」
「俺は、あまり得意じゃない」
「そうでしょうね」
「そんなにはっきり言うか」
「昨日の夜で分かりました」
エリオットはまた言葉に詰まった。
ミラは包帯を巻き直しながら、少しだけ微笑んだ。
「だから、私が見張ります」
「見張る?」
「はい。勝手に木剣を握らないように」
「俺は子どもか」
「昨日の行動だけを見ると、少し」
「……」
エリオットは顔を背けた。
耳が赤い。
ミラは見なかったことにして、包帯の結び目を整えた。
「午後は村の診療があります。夕方にもう一度確認します。それまでは右手を休ませてください」
「ああ」
「木剣は?」
「握らない」
「布の練習は?」
「君の前でだけ」
「痛みが強くなったら?」
「呼ぶ」
「よろしいです」
エリオットはどこか納得いかなそうな顔をしていたが、立ち上がった。
診療所を出る前に、ふと振り向く。
「ミラ」
「はい」
「……今日の治療は、悪くなかった」
ミラは瞬きをした。
エリオットは視線を逸らしたまま続ける。
「布をつまむだけでも、動いたことには違いない」
「はい。そうです」
「なら、また来る」
「お待ちしています」
その言葉に、彼はほんの少しだけ頷いて、外へ出ていった。
扉が閉まる。
ミラはしばらくその扉を見ていた。
胸の奥が、少し温かい。
患者が治療に前向きになったからだ。
きっとそうだ。
そう自分に言い聞かせ、ミラは帳面に新しい記録を書き込んだ。
――布をつまむ動作成功。本人に継続意思あり。黒い瘴気に対し、白い刃状の反応が抵抗している可能性。




