熱を持つ右腕
扉の前に立つエリオットの右手は、確かに動いていた。
指先は震えている。力強い動きとは、とても言えない。
それでも、昨日までほとんど応えなかったはずの手が、ぎこちなく、けれど明確に曲がっている。
ミラは一瞬、言葉を失った。
「……また、動いた」
エリオットは、気まずそうにそう言った。
その声には、喜びよりも戸惑いの方が濃かった。
まるで、自分の手が自分のものではないように。
あるいは、信じてしまえばまた奪われると分かっているものを、恐る恐る差し出しているように。
ミラはすぐに治療師の顔に戻った。
「中へ。すぐ診ます」
「ああ」
エリオットは小さく頷き、診療所代わりの空き家へ入った。
夕暮れの光が窓から差し込み、机の上に置かれた帳面と薬瓶を赤く染めている。ミラは椅子を引き、エリオットを座らせた。
「いつから動きましたか」
「さっきだ」
「痛みは?」
「ある」
「強いですか」
「……少し」
その一拍の間に、ミラは眉を寄せた。
「エリオットさん」
「何だ」
「正確に答えてください。痛みを軽く言われると、治療の判断を誤ります」
エリオットはわずかに視線を逸らした。
「……強い」
「どのあたりですか」
「手首から肘の内側。奥が焼けるように熱い。指を動かすと、引き攣る」
「痺れは?」
「ある。だが、昨日までとは違う。鈍いだけじゃない。痛みと一緒に、何かが通っているような感じがする」
ミラは帳面を開き、素早く記録した。
右腕に熱感。
手首から肘内側に痛み。
指の随意運動あり。
痺れの質に変化。
護符とペンダントに反応。
書きながら、ミラはエリオットの右腕へ視線を落とす。
手首に巻かれた護符は、淡い光を帯びていた。昨日よりも強い。
黒い紐の下で、小さな金属片に刻まれた白花の紋が、呼吸するように明滅している。
そしてミラの胸元でも、白い花のペンダントが同じ温もりを返していた。
「袖を上げます」
「分かった」
今日のエリオットは拒まなかった。
それだけで、ミラはほんの少し驚いた。
けれど表情には出さず、彼の右袖を丁寧にまくる。
露わになった前腕は、昨日よりも赤みが強かった。古い傷跡の周辺が熱を持ち、皮膚の下で何かが蠢いているように見える。実際に動いているわけではない。けれど、ミラの目には、そこに黒い靄が集まりかけている気配があった。
ミラは小型の魔力結晶を取り出し、腕のそばへ置いた。
透明だった結晶の中に、すぐに黒い筋が走る。
昨日より濃い。
「……良い変化だけではなさそうです」
ミラは小さく呟いた。
エリオットの表情が硬くなる。
「悪化しているのか」
「分かりません。腕の奥が動き始めたことで、これまで抑えられていた瘴気も刺激されているのかもしれません」
「瘴気」
「あなたの右腕に残っている黒い反応です。魔物由来のものだと思いますが、普通の毒や呪いとは違います」
ミラは結晶を見つめた。
黒い靄の奥に、細い光がある。
昨日までは、かすかな筋のようにしか見えなかった。
だが今日は違う。
黒い靄に絡め取られた奥に、白いものがある。
ただの光ではない。
ミラの治癒魔法の白花の光の柔らかさとも違う。
もっと細く、鋭い。
まるで、鞘の中に隠された刃のような光。
ミラは息を止めた。
これは何だろう。
エリオットの護符の光ではない。
自分のペンダントの反応でもない。
これは、彼自身の中から出ている。
「ミラ?」
エリオットの声で、ミラは我に返った。
「すみません」
「何か見えたのか」
「……まだ、うまく説明できません」
ミラは慎重に言った。
「ただ、あなたの腕の奥に、昨日とは違う反応があります。黒い靄の奥に、白い光が見えます」
「白い光?」
「はい。私の治癒魔法とも、護符の光とも違うように見えます」
エリオットは自分の右腕を見下ろした。
「俺には見えない」
「私にも、はっきり見えているわけではありません。感覚に近いです」
「それは、悪いものなのか」
ミラは首を横に振った。
「分かりません。でも、黒い靄とは違います。むしろ……」
「むしろ?」
「黒いものに、抵抗しているように見えます」
部屋の中が静かになった。
窓の外では、夕方の鳥が鳴いている。
遠くから村人たちの夕餉の支度をする声が聞こえた。
エリオットはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「それなら、進めてくれ」
「進める?」
「治療を」
ミラはすぐに答えなかった。
エリオットの目は、昨日までより強かった。
消えかけていた火に風が入り、もう一度燃えようとしている。
そのこと自体は、喜ぶべきなのだろう。
けれど今の右腕は、あまりに不安定だった。
「今日は強い治療はしません」
「なぜ」
「熱が出ています。瘴気の反応も強い。無理に魔力を流せば、かえって腕を傷つける可能性があります」
「だが、動いた」
「だからこそ」
ミラは静かに言った。
「動いたから、もっと動かしたくなる。分かります。でも、今は身体がその変化についていけていません」
エリオットの眉が険しくなる。
「このまま待てと言うのか」
「待つのも治療です」
「俺は二年待った」
その声には、押し殺した感情が滲んでいた。
「二年、何も変わらなかった。ようやく動いたんだ。これ以上、ただ待つのは――」
「ただ待つのではありません」
ミラは彼の言葉を遮った。
強い声だった。
自分でも驚くほど、はっきりとした声。
「治すために、待つんです」
エリオットが黙る。
ミラは少しだけ息を吸った。
「痛みに耐えることと、治療に耐えることは違います。痛みを無視して進むことは、勇気ではありません」
エリオットの目がわずかに揺れた。
「……騎士には、痛みを堪える訓練がある」
「治療師には、痛みを見逃さない訓練があります」
ミラは真っ直ぐに彼を見た。
「ここでは、私の方が専門です」
エリオットは何か言い返そうとしたようだった。
けれど結局、言葉にはならなかった。
ミラは右腕に手を添え、ほんの少しだけ魔力を流した。
傷を塞ぐ魔法ではない。
腕の奥で乱れた流れを探るだけ。
黒い靄がざわめく。
その奥で、白い刃のような光が一瞬、細く瞬いた。
エリオットが息を詰める。
「痛みますか」
「熱い」
「続けられますか」
「……ああ」
「嘘をつかないでください」
「続けられる」
ミラは彼の顔色を見た。
額に汗が滲んでいる。唇の色も少し悪い。
ミラはすぐに手を離した。
「今日はここまでです」
「ミラ」
「ここまでです」
エリオットの口元が引き結ばれる。
「明日また診ます。今夜は右腕を使わないでください」
「分かった」
「本当に分かっていますか?」
「……分かった」
その返事に、ほんの少し不安を覚えながらも、ミラは新しい布で右腕を緩く保護した。
祠の泉の水を使えば、熱を抑えられるかもしれない。
昨夜エダが言っていた。
昔は熱を持つ傷に、泉の水を使ったと。
ただ、今すぐ祠へ行くには時間が遅い。まずは通常の湿布で様子を見るべきだろう。
ミラは冷やしすぎない湿布を作り、傷跡の周囲に当てた。
「今夜、痛みが強くなったら必ず呼んでください」
「ああ」
「必ずです」
「……しつこいな」
「患者さんが約束を破りそうなので」
エリオットは少しだけ目を伏せた。
「破らない」
そう言った声は、なぜか少しだけ頼りなかった。
*
約束は、その夜のうちに破られた。
正確には、破ろうとしたわけではなかったのかもしれない。
エリオットは自宅に戻ると、夕食にもほとんど手をつけず、右腕の熱が引くのを待った。
ミラに言われた通り、動かすな。
分かっている。
理屈では。
けれど、右手の指先に残る感覚が消えなかった。
痛み。熱。引き攣るような違和感。
それらはすべて、二年間なかったものだ。
痛いということは、そこに腕があるということだった。
動かしたいと願えば、ほんの少しだけ応えるかもしれないということだった。
エリオットは部屋の隅を見た。
壁に立てかけられた木剣。
村へ戻ってから、何度も握ろうとしては落としたものだ。
そのたびに、もう二度と触るまいと思った。
それでも捨てられず、ずっとそこに置いていた。
エリオットは椅子から立ち上がった。
右腕を使うな。
ミラの声が頭に響く。
分かっている。
分かっているのに、足は木剣へ向かった。
左手で木剣を取り、右手の前に置く。
持ち上げる必要はない。
ただ、触れるだけ。
今日どれくらい動くのか、確かめるだけ。
そう自分に言い聞かせ、エリオットは右手を伸ばした。
指先が木剣の柄に触れる。
ざらついた木の感触。
分かる。
エリオットは息を止めた。
親指を曲げる。
人差し指をかける。
中指が遅れて震える。
握れる。
いや、まだ握れてはいない。
それでも、指が柄に沿った。
それだけで、胸の奥が焼けるように熱くなった。
「……もう少し」
呟いた瞬間、右腕の奥で何かが弾けた。
鋭い痛みが肘から肩へ走る。
「ぐっ……!」
木剣が床に落ちた。
乾いた音が部屋に響く。
エリオットは膝をついた。右腕が熱い。熱いどころではない。内側から焼かれているようだった。
手首の護符が強く光る。
黒い靄のようなものが、皮膚の下で脈打つように浮かび上がった気がした。
息が乱れる。
汗が額から落ちる。
エリオットは左手で右腕を押さえた。
呼ぶべきだ。
ミラを。
そう思った瞬間、強い抵抗が胸を刺した。
言われたばかりなのに。
使うなと言われたのに。
それを守れなかった。
子どもか、俺は。
奥歯を噛みしめる。
だが痛みは引かなかった。むしろ強くなる。指先が震え、腕の中で熱が暴れている。
その時、外から扉を叩く音がした。
「エリオット」
エダの声だった。
「起きているんだろう。妙な光が見えたよ」
エリオットは返事をしようとしたが、声がうまく出なかった。
扉が開く。
杖をついたエダが入ってきて、床に膝をつくエリオットを見るなり、深くため息をついた。
「……あの治療師さんに、無理をするなと言われなかったのかい」
「少し……試しただけだ」
「その“少し”で男はだいたい馬鹿をするんだよ」
エダはそう言いながらも、すぐに表情を引き締めた。
「待っていな。治療師さんを呼ぶ」
「呼ばなくていい」
「黙っておいで」
エダの声は静かだったが、逆らえない強さがあった。
「痛みを隠しても、腕は戻らないよ」
エリオットは何も言えなかった。
*
ミラが駆けつけた時、エリオットの右腕はひどい熱を持っていた。
エダに呼ばれて走ってきたミラは、息を整える間もなく彼のそばに膝をつく。
「何をしましたか」
声は静かだった。
静かすぎて、エリオットはかえって視線を上げづらかった。
「……木剣に触れた」
「握ろうとしましたか」
「少しだけだ」
「エリオットさん」
ミラの声が少し低くなる。
エリオットは観念したように答えた。
「握ろうとした」
ミラは一度、目を閉じた。
怒鳴りはしなかった。
責めるようにため息もつかなかった。
ただ、目を開けた時、その若葉色の瞳は真剣だった。
「痛みを無視するのは、勇気ではありません」
「……分かっている」
「分かっていません」
きっぱりと言われ、エリオットは言葉を失った。
ミラは右腕に触れた。
その瞬間、彼女の顔色が変わる。
黒い靄が暴れている。
昼間よりもはるかに濃い。
けれど、その奥で白い刃の光もまた、鋭く震えていた。
黒いものを断とうとしている。
だが、通り道である魔力路が壊れているから、力が暴れて腕そのものを傷つけている。
ミラは直感した。
エリオットの右腕は、ただ治り始めているのではない。
何かが目覚めかけている。
けれど、その力に身体が耐えられない。
「エダさん、祠の泉の水は使えますか」
「持ってきてある」
エダは小さな瓶を差し出した。
澄んだ水が月明かりを含むように淡く光っている。
「白花も少し」
「ありがとうございます」
ミラは鞄から清潔な布と小さな乳鉢を取り出した。白い花弁を数枚、水に浸し、魔力をほんの少しだけ流す。
花弁が淡く光る。
エリオットはそれを見て、苦しげに眉を寄せた。
「それは……」
「熱を鎮めます。治すためではなく、暴れている流れを落ち着かせるためです」
「そんなこともできるのか」
「できるかどうかは、今から確かめます」
「……相変わらず正直だな」
「嘘をついても治りませんから」
ミラは湿らせた布を、エリオットの右腕にそっと当てた。
熱が布へ吸われるように、じゅわりと逃げていく。
同時に、ミラは左手で彼の手首を支え、右手を傷跡の上にかざした。
強い治癒魔法は使わない。
押し戻すのではなく、鎮める。
戻る道を探す前に、まず暴れている流れを休ませる。
ミラの掌から、白い花のような光がほどけた。
エリオットの護符が呼応する。
そして、黒い靄の奥にあった白い刃の光が、ほんの一瞬、まっすぐに伸びた。
ミラは見た。
それは、剣だった。
形として見えたわけではない。
けれど確かに、刃の気配があった。
誰かを傷つけるためではない。
何か悪いものを断つための、澄んだ光。
「……ミラ?」
エリオットの声で、ミラは瞬きをした。
痛みが少し引いたのか、彼の呼吸は先ほどより落ち着いている。
「大丈夫です。熱が少し下がってきました」
「そうか」
「ただし、今夜はもう絶対に動かさないでください」
「分かった」
「今度こそです」
「ああ」
ミラは彼をじっと見た。
「信用してもいいですか」
エリオットはわずかに苦笑した。
「今、それを聞かれるとつらいな」
「つらくても答えてください」
「……信用してくれ」
ミラは少しだけ表情を緩めた。
「では、信じます」
その言葉に、エリオットは黙った。
信じる。
たったそれだけの言葉が、妙に重く響いた。
この二年、彼はあまり自分を信じてこなかった。
右腕も、未来も、剣も。
何もかも、もう戻らないと思っていた。
それなのにミラは、治ると断言しないまま、彼を見捨てない。
期待していいとも言わない。
だが、可能性を雑に扱わない。
そのことが、今のエリオットには痛いほどありがたかった。
しばらくして右腕の熱が落ち着くと、ミラは布を替え、保護用の包帯を巻き直した。
「明日から、訓練の仕方を決めます」
「訓練?」
「はい。勝手に木剣を握るのは禁止です。その代わり、私の確認のもとで、指を動かす練習をします」
エリオットの目がわずかに明るくなる。
「剣は」
「まだ早いです」
「木剣も?」
「早いです」
「……そうか」
あからさまに落胆した声だった。
ミラは少し考え、言葉を足した。
「でも、いつか木剣を握るための訓練です」
エリオットが顔を上げる。
「本当に?」
「約束はできません。でも、そのために進めます」
エリオットはしばらくミラを見ていた。
それから、静かに息を吐く。
「……悪かった」
ミラは少し目を見開いた。
「何がですか」
「君の言うことを聞かなかった。焦っていた」
低い声だった。
けれど、はっきりとした謝罪だった。
「二年、何も戻らなかった。少しでも動いたら、止まれなかった」
エリオットは包帯を巻かれた右腕を見下ろした。
「馬鹿なことをした」
「焦るのは当然です」
ミラは静かに言った。
「でも、次からは一人で試さないでください。小さな変化でも、私に見せてください」
「……君に?」
「はい」
ミラは少しだけ迷い、それでも続けた。
「あなたの右腕は、あなた一人の努力だけでは戻せないかもしれません。でも、あなたの意志がなければ戻りません。だから、一緒に状態を見ていく必要があります」
一緒に。
その言葉に、エリオットの胸が微かに震えた。
誰かと一緒に、取り戻す。
そんな考えは、今までなかった。
騎士だった頃、剣は自分で振るうものだった。
負傷してからの痛みも、悔しさも、諦めも、自分一人で抱えるものだと思っていた。
けれどミラは、当然のように彼の隣へ立とうとしている。
患者と治療師として。
それだけなのだろう。
それだけのはずなのに。
「分かった」
エリオットは言った。
「君に従う」
ミラの指先が、包帯の結び目の上で止まった。
「……治療方針に、という意味ですよね」
「他に何がある」
「いえ。確認です」
ミラはなぜか視線を逸らした。
その様子を見て、エリオットの口元がほんのわずかに緩む。
「君は、変なところで慌てるな」
「慌てていません」
「そうか」
「はい」
エダが横で小さく咳払いをした。
「若いねえ」
「エダさん」
ミラが困ったように振り向くと、エダは何食わぬ顔で薬草の瓶を片づけていた。
「何も言ってないよ」
エリオットは少しだけ顔を背けた。
耳が赤くなっていたかどうかは、薄暗い部屋では分からなかった。
*
その夜、ミラは診療所に戻った後も、なかなか眠れなかった。
帳面を開き、エリオットの経過を記録する。
右腕に強い熱感。
木剣を握ろうとして痛み増悪。
祠の泉の水と白花で鎮静。
護符とペンダントが強く反応。
黒い瘴気の奥に白い刃状の光。
そこまで書き、ミラは筆を止めた。
白い刃状の光。
それは治癒の女神の加護とは違う。
治癒の娘の力とも違う。
エダが昨夜語った言葉が蘇る。
女神に加護を授かった娘。
そして、女神に仕えた守護騎士。
ミラは胸元のペンダントに触れた。
「エリオットさん自身にも、何かがある……?」
まだ、確証はない。
けれどあの光は、彼の中から生まれていた。
黒い靄に抗い、断とうとしている。
まるで、剣のように。
ミラは帳面の隅に小さく書き加えた。
――白い刃の光。護符由来ではない可能性。エリオット本人の魔力反応か。
書いてから、胸の奥がざわめいた。
もしそうなら。
もし、エリオットもまた、自分と同じように何かを受け継いでいるのなら。
ミラは窓の外を見た。
夜の村は静かだった。
遠く、祠のある方角で、風が木々を揺らしている。
分からないことばかりだ。
自分のペンダントのこと。
治癒の娘のこと。
エリオットの護符のこと。
彼の右腕に残る瘴気のこと。
そして、あの白い刃の光のこと。
けれど、ひとつだけ決めたことがある。
ミラは帳面を閉じ、そっと胸元の白い花を握った。
「明日も、診る」
怖くても。
分からなくても。
自分が何者なのか、まだ知らなくても。
目の前に、治したい人がいる。
もう一度剣を握りたいと願う人がいる。
ならばミラは、治療師としてその手を取る。
その夜、白い花のペンダントは、答えるように淡く温もりを灯していた。




