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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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白花の紋

 朝の村は、王都よりずっと早く目覚める。

 夜明け前から鶏が鳴き、家々の煙突から細い煙が立ち上り、畑へ向かう人々の足音が村道を行き交う。窓の外から聞こえるその気配に、ミラはいつもより少し早く目を覚ました。

 見慣れない天井。

 乾いた薬草の匂い。

 古い木の壁と、小さな窓から差し込む淡い朝日。

 昨夜、村長に案内された元薬師の空き家だ。

 ミラは寝台の上でゆっくり身を起こした。

「……夢じゃない」

 胸元に手を当てる。

 白い花のペンダントは、いつものようにそこにあった。けれど昨夜、治癒の女神の祠で淡く光った時の温もりが、まだ指先に残っている気がする。

 エリオットの護符。

 村外れの祠。

 老女エダの語った“治癒の娘”。

 そして、自分のペンダントと同じ白花の紋。

 考えれば考えるほど、偶然とは言い切れなかった。

 だが、だからといって何かが分かったわけでもない。

 ミラは寝台から降り、洗面用の水で顔を洗った。冷たい水が頬に触れると、ようやく頭が少しはっきりする。

「まずは、仕事」

 小さく声に出して、自分に言い聞かせる。

 自分の身に何が起きているのかは分からない。けれど、この村に治療師として呼ばれたことは事実だ。熱を出した子どもも、畑で手を切った青年も、腰を痛めた老人もいる。

 そして、エリオットの右腕も。

 ミラは髪を低い位置で結び、生成りのブラウスの袖を整えた。セージグリーンのベストを身につけ、鞄の中身を確認する。

 包帯。軟膏。薬草。ポーション。魔力結晶。応急用の魔法陣札。

 どれもいつも通り。

 ただひとつ、胸元の白い花だけが、いつもとは違う意味を持ち始めていた。

 扉を開けると、すでに数人の村人が空き家の前で待っていた。

「おはようございます、ミラさん」

「昨日はありがとうねえ。うちの子、熱が少し下がったんだよ」

「すみません、朝早くから。昨日巻いてもらった包帯が少し緩んでしまって」

 ミラはすぐに治療師の顔になった。

「順番に診ますね。熱のある方は中へ。怪我の確認だけの方は、外の椅子に座ってお待ちください」

 空き家は、その朝から簡易診療所になった。

 ミラは戸棚を拭き、机の上に清潔な布を敷いた。窓を開けると、朝の風が薬草の匂いを運んでくる。

 最初に診たのは、昨日熱を出していた子どもだった。額の熱は少し下がっている。喉の腫れも悪化していない。

「よく眠れましたか?」

 ミラが尋ねると、子どもはこくりと頷いた。

「にがい薬、ちゃんと飲んだ」

「えらいですね。今日も少しだけ飲みましょう。全部飲めたら、明日は量を減らせるかもしれません」

 子どもの母親がほっとしたように笑った。

 次は畑で手を切った青年。傷口は赤みが少し引いている。水仕事を控えるよう言ったのに、すでに少し濡らしたらしく、ミラは眉を下げた。

「今日は絶対に濡らさないでくださいね」

「はい……」

「絶対です」

「はい」

 そのやり取りを見て、外で待っていた老人たちが小さく笑う。

 いつもの仕事。

 いつもの治療。

 そのはずなのに、ミラの耳には、村人たちの囁きが何度も届いた。

「昨日、エリオットの手が動いたって本当かい」

「女神様の奇跡じゃないのかね」

「あの治療師さん、すごい人なのかもしれないよ」

 ミラは包帯を巻く手を止めなかった。

 浮かれてはいけない。

 あれはまだ治療の成功ではない。変化が起きた。ただ、それだけだ。

 期待は、時に患者を支える。

 けれど、根拠のない期待は、人を深く傷つける。

「ミラさん」

 腰を痛めた老人を診終えたところで、村長が顔を出した。

「エリオットが来ている」

 ミラの手が、ほんの少しだけ止まった。

「……分かりました。次に診ます」

 外へ視線を向けると、空き家の前に背の高い影があった。

 エリオットは、昨日と同じような村仕事用の服を着ていた。生成りのシャツに濃い色のベスト。黒に近いダークブラウンの髪は少し乱れていて、灰青色の瞳は相変わらず人を寄せつけないように見える。

 けれど、昨日とは違っていた。

 彼は誰かに促されたのではなく、自分の足でここに来ている。

「エリオットさん。中へどうぞ」

 ミラが声をかけると、彼は一瞬ためらったように見えた。

 それから、低く答える。

「……ああ」

 診療所代わりの部屋に入ると、エリオットは椅子に腰を下ろした。

 大柄な彼が座ると、小さな部屋が少し狭く感じられる。

 ミラは向かいに座り、帳面を開いた。

「昨夜、痛みはありましたか」

「……あった」

「どのあたりに?」

「手首から指先。内側を引かれるような痛みだ。熱もあった」

「痺れは?」

「いつもより強かった。だが、遠い痺れじゃない。触られているのが分かるような……うまく言えない」

 ミラは頷きながら記録する。

「それから」

 エリオットは少し言いにくそうに目を伏せた。

「杯に触れた」

「杯?」

「机の上にあった木の杯だ。右手で触れて……少し、動かした」

 ミラは顔を上げた。

「持ち上げたのですか?」

「いや。そこまでは無理だ。だが、指がかかった。杯が少しだけ動いた」

 その声は平静を装っていた。

 けれど、ミラには分かった。

 彼にとって、それがどれほど大きなことだったのか。

 二年間、何も返してくれなかった右手。

 剣どころか杯すら掴めなかった手。

 その手が、ほんの少しだけでも自分の意志に応えた。

「大きな変化です」

 ミラが言うと、エリオットは視線を逸らした。

「そうか」

「はい。とても大きな変化です」

「……大げさだ」

「大げさではありません。昨日は偶発的な指の動きでした。でも昨夜は、あなたが意識して動かそうとして、実際に物へ触れています。これは記録すべき変化です」

 ミラが真剣に言うと、エリオットは黙った。

 その耳のあたりが、わずかに赤く見えた気がして、ミラは少しだけ首を傾げる。

 だが、すぐに診察へ意識を戻した。

「その時、護符は反応しましたか」

 エリオットの表情が変わった。

「ああ」

「光りましたか」

「淡くだが」

「いつですか。杯に触れた時? それとも指が動いた時?」

「……指が動いた後だと思う」

「痛みは強くなりましたか」

「少し」

「その後、眠れましたか」

「ほとんど眠れなかった」

「痛みで?」

「それもある」

 ミラは顔を上げた。

「ほかにも理由が?」

 エリオットはしばらく黙っていた。

 言いたくないなら無理に聞くべきではない。そう思ってミラが視線を落とそうとした時、彼が低く言った。

「怖かった」

 ミラは動きを止めた。

「……怖かった、ですか」

「期待しそうになった」

 エリオットは自分の右手を見下ろした。

「今さら、治るかもしれないと思うのが怖かった。これでまた何も起きなければ、今度こそ……」

 言葉はそこで途切れた。

 今度こそ、何なのか。

 ミラは聞かなかった。

 聞かなくても、分かった気がした。

 今度こそ折れてしまう。

 今度こそ諦めるしかなくなる。

 今度こそ、自分には何も残っていないと認めなければならなくなる。

 そういう恐怖だ。

 ミラは帳面を閉じた。

「期待してもいい、とは簡単に言えません」

 エリオットが彼女を見る。

「ですが、怖いなら怖いままで構いません。治療は、怖くなくなってから始めるものではありませんから」

「……君は妙なことを言う」

「そうでしょうか」

「怖いままでいい、なんて言う治療師は初めてだ」

「痛い時に痛くないふりをしても、治療は進みません。怖い時も同じです」

 ミラはそっと手を差し出した。

「右腕を拝見しても?」

 エリオットは一瞬だけその手を見つめた。

 昨日なら、すぐに拒んでいたかもしれない。

 けれど今日は、彼は何も言わず、右腕を差し出した。

 ミラはその変化に気づいたが、口には出さなかった。

 右袖を丁寧にまくる。古い傷跡が朝の光の中に現れる。手首の護符は、昨夜と同じように黒い紐で巻かれていた。

 ミラはまず、指先の温度を確認した。

「昨日より少し温かいです」

「そうなのか」

「はい。次に、触覚を確認します。目を閉じてください」

 エリオットは無言で目を閉じた。

 ミラは小さな羽根のように軽く、彼の親指に触れた。

「分かりますか」

「……分かる」

「では、これは?」

 人差し指。

「分かる」

「これは?」

 薬指。

「少し鈍い」

「小指は?」

「ほとんど分からない」

 ミラは一つひとつ記録した。

 昨日より、確かに反応がある。

 次に、小型の魔力結晶を取り出す。透明な結晶をエリオットの右腕の近くへ置くと、内部に薄い光が巡った。

 そしてすぐ、黒い煙のような筋が浮かび上がる。

 昨日よりもはっきりしている。

 ミラは息を潜めた。

 腕の奥に、道が見える。

 絡まった細い光。焼け焦げた蔓のような黒い影。だが昨日よりも、その奥にある淡い光が見えやすい。

「昨日より、見えます」

「何が」

「……うまく説明できません。あなたの腕の中にある、魔力の流れのようなものです。壊れているけれど、完全には切れていない」

「それが治れば、腕は動くのか」

「可能性はあります」

「可能性」

 エリオットはその言葉を噛みしめるように繰り返した。

 ミラは頷く。

「ただし、無理に魔力を流すのは危険です。昨日の反応で、腕の奥が動き始めているように見えます。今日は確認と軽い調整に留めます」

「治療はしないのか」

「します。でも、強い治療はしません」

 エリオットがわずかに眉を寄せる。

「なぜ」

「治療師として、急いではいけないと判断したからです」

 ミラは真っ直ぐに答えた。

「この腕は、二年かけて今の状態になっています。昨日ほんの少し動いたからといって、急に戻そうとすれば、かえって傷つけるかもしれません」

「……そうか」

「焦る気持ちは分かります」

「分かるのか」

 その問いに、ミラは少しだけ言葉に詰まった。

 剣を握れなくなった痛みを、彼女は知らない。

 騎士としての未来を失う苦しみも、知らない。

 けれど、選ばれなかった悔しさなら知っている。

 王都の治療院に残れなかった日。

 家族が優秀であるほど、自分の平凡さが際立つように思えた日。

 誰にも責められていないのに、自分だけが足りないもののように感じた日。

 ミラは静かに言った。

「全部は分かりません。ですが、早く取り戻したいと思う気持ちは、少し分かる気がします」

 エリオットは黙った。

 ミラは彼の右手に両手を添えた。

「少しだけ魔力を流します。痛みが強くなったら言ってください」

「ああ」

 ミラは目を閉じた。

 いつもの治癒魔法なら、患部の熱や傷を探し、そこへ魔力を染み込ませる。けれどエリオットの腕には、それだけでは届かない。

 ミラは昨夜、祠で聞いた言葉を思い出した。

 ――痛みを恐れず、触れなさい。

 恐れずに。

 けれど、乱暴には触れない。

 彼の腕の奥で絡まる細い光へ、ミラはそっと意識を伸ばした。白い花が開くような柔らかな魔力を、ほんの少しだけ流す。

 護符が淡く光った。

 同時に、ミラのペンダントも胸元で温もりを帯びる。

 エリオットが息を詰めた。

「痛みますか」

「……熱い」

「中止しますか」

「いや」

 彼は歯を食いしばるように言った。

「続けてくれ」

 ミラは頷いた。

 無理に押し込まない。

 塞がれた道をこじ開けるのではなく、どこが通れるのかを探る。

 黒い靄に覆われた一筋の光が、わずかに震えた。

 エリオットの人差し指が、ぴくりと動く。

 ミラはすぐに魔力を止めた。

「今日はここまでです」

「もう?」

「はい」

「今、動いた」

「だからです。これ以上は負担になります」

 エリオットは不満そうにミラを見た。

 その顔があまりにも素直で、ミラは思わず少しだけ笑ってしまった。

「何だ」

「いえ。昨日より、治療に前向きになってくださったと思って」

「……別に」

 エリオットは顔を背けた。

「治る可能性があるなら、試すだけだ」

「はい。それで十分です」

 ミラは布を新しいものに替え、右腕を緩く保護した。

「今日は右手で物を持とうとしすぎないでください。確認は一日に数回、短時間だけ。痛みが強くなったらすぐに休むこと。夜にまた熱が出るかもしれません」

「分かった」

「本当に分かっていますか?」

「……努力する」

「努力ではなく、守ってください」

 エリオットは少しだけ眉を上げた。

「君は俺より年下そうなのに、妙に容赦がないな」

「患者さんには年齢は関係ありません」

「そうか」

 彼の口元が、ほんのわずかに緩んだ。

 まただ。

 笑みと呼ぶには小さい。けれど昨日よりも確かに柔らかい。

 ミラはなぜか、少しだけ胸が落ち着かなくなった。

 診察を終えたエリオットが立ち上がる。

 扉へ向かいかけて、彼はふと振り返った。

「昨夜、護符が光った」

「はい」

「君のペンダントも、光ったのか」

 ミラは胸元に手を当てた。

「……はい。祠で」

「祠に行ったのか」

「気になったので。勝手に立ち入ってしまったのは反省しています」

「エダ婆に会ったか」

「はい」

 エリオットは少しだけ目を細めた。

「何を聞いた」

「治癒の女神と、“治癒の娘”の伝承を少しだけ」

 エリオットの表情が静かになった。

「……あの婆さんは、昔話が好きだからな」

「昔話だけではないかもしれません」

 言ってから、ミラは口を閉じた。

 まだ確証はない。

 エリオットに余計な期待を持たせるべきではない。

 けれど彼は、ミラの迷いに気づいたようだった。

「何か分かったのか」

「分かったというほどではありません。ただ、この村の祠とあなたの護符、私のペンダントに共通する紋様があります。それが偶然なのかどうか、調べたいと思っています」

「君のペンダントが?」

「はい」

「それは、どこで手に入れた」

「母から譲られました。詳しい由来は知りません」

「そうか」

 エリオットは何か考えるように沈黙した。

 それから、低く言った。

「調べるなら、村長に古い記録を見せてもらうといい。祠の話は、エダ婆が一番詳しい。ただ、古い祭りの歌や供花の決まりは、村長の家に記録が残っているはずだ」

「ありがとうございます」

「礼を言うようなことじゃない」

「助かりました」

 エリオットは少しだけ困ったような顔をした。

「……君は、すぐ礼を言うな」

「言うべき時には言います」

「そうか」

 それだけ言って、エリオットは診療所を出ていった。

 ミラはその背中を見送る。

 昨日よりも、ほんの少しだけ右腕を庇う動きが少ないように見えた。

 そのことに気づいて、ミラは帳面へ小さく書き加えた。

 ――右腕への意識あり。昨夜、杯に触れた。護符が反応。本人に治療継続の意思あり。

 最後の一文を書いた時、ミラは少しだけ息を吐いた。

 本人に治療継続の意思あり。

 それは、何より大切なことだった。

     *

 午前の診療が一段落した後、ミラは村長の家を訪ねた。

「古い記録?」

 村長は目を瞬かせた。

「はい。治癒の女神の祠について、何か残っていれば見せていただきたいんです。昨日のエリオットさんの反応と関係があるかもしれません」

「そういうことなら、探してみよう。たいしたものはないかもしれないが」

 村長は奥の物置から、古い木箱を運んできた。

 箱を開けると、乾いた紙と古い布の匂いが立ち上る。中には、祭りの記録、村の収穫帳、古い地図、祠に供える花の決まりなどが雑多に詰め込まれていた。

 ミラは机を借り、慎重に紙を広げた。

 文字は古く、ところどころ読みにくい。

 治癒の女神。

 白花祭。

 泉の水。

 供花。

 戻し手。

 護符。

 断片的な言葉がいくつも見つかる。

 ミラは自分の帳面に書き写していった。

「白花祭……?」

「昔は春に小さな祭りをしていたらしい。今は花を供えるだけになっているがね」

 村長が説明する。

「祠の花は、村外れに咲く白い花と決まっていたとか」

「この紋様は?」

 ミラは古い紙の端に描かれた花の印を指した。

 五枚の花弁。中心から外へ広がる細い線。

 自分のペンダントと、ほとんど同じ形だった。

「女神様の紋だろう。昔の護符にも刻まれていたと聞く」

「護符は、今も作られているんですか」

「いや、今あるものは古いものだけだ。エリオットが持っているものも、もとはエダ婆の家に残っていたものだったはずだ」

「エダさんの家に」

「ああ。あの人の家は昔、薬師の家系だったからね。祠の世話も代々していたんだ」

 ミラは紙をめくる手を止めた。

 薬師の家系。

 祠の世話。

 護符。

 やはり、エダからもっと話を聞く必要がある。

 その時、一枚の古い紙が箱の底から滑り落ちた。

 ミラはそれを拾い上げる。

 他の記録よりもさらに古く、端は破れ、文字も滲んでいる。けれど、中央に描かれた白花の紋ははっきり残っていた。

 その下に、短い文章がある。

 ミラは目を凝らした。

「……白花の紋を持つ娘、都へ発つ」

 声に出した瞬間、部屋の空気が変わった気がした。

 村長が首を傾げる。

「都へ?」

 ミラは紙を見つめたまま動けなかった。

 白花の紋を持つ娘。

 治癒の娘。

 村を離れたという娘。

 都へ行ったとも、旅に出たとも言われている娘。

 都。

 王都。

 ミラの家族が暮らしてきた場所。

 母から受け継いだ白い花のペンダント。

 胸の奥で、鼓動が速くなる。

 まさか。

 そんなはずはない。

 けれど、その否定はひどく弱かった。

「ミラさん?」

 村長に声をかけられ、ミラははっとした。

「すみません。この記録、少し詳しく写してもいいですか」

「ああ、もちろんだ」

 ミラは震えそうになる指を押さえながら、古い文章を書き写した。

 全文は読めない。破れている部分も多い。

 だが、いくつかの言葉は拾えた。

 白花の紋。

 戻し手。

 泉の誓い。

 傷つきし騎士。

 都へ発つ。

 血を継ぐ者。

 “血を継ぐ者”。

 その言葉を見た時、ミラは胸元のペンダントを握った。

 兄ライヘルに報告するべきだろうか。

 ふと、その考えが頭をよぎる。

 兄は王立魔術院の研究員だ。古い魔術体系や血筋に関する資料にも詳しい。ミラがこの記録を送れば、きっと何か調べてくれるだろう。

 けれど、ミラはすぐにその考えを押し留めた。

 まだ早い。

 今の自分には、何が起きているのか説明できない。

 エリオットの腕の変化も、護符の反応も、ペンダントの光も、祠で聞いた声も、すべて断片でしかない。

 兄に手紙を書くなら、もっと確かな事実が必要だ。

 それに。

 王都へ知らせれば、王立魔術院が関心を持つかもしれない。

 ミラ自身のことならまだいい。

 けれど、エリオットの腕を研究対象のように扱われるのは避けたかった。

 ミラは静かに息を吐き、帳面の端に小さく書いた。

 ――兄に相談するべきか。現時点では保留。まず村内の記録と経過を確認。

     *

 昼を過ぎてから、ミラはエダの家を訪ねた。

 エダの家は祠に近い村外れにあり、軒先には薬草がいくつも吊るされていた。扉を叩くと、すぐに老女が顔を出す。

「来ると思っていたよ」

「……お邪魔します」

 エダは笑って、ミラを中へ招き入れた。

 室内には薬草の匂いが満ちている。棚には古い瓶や乾燥させた根、木箱に入った古文書が並んでいた。

「村長の家で記録を見ました」

「何か見つけたかい」

「“白花の紋を持つ娘、都へ発つ”と」

 エダの目が細められる。

「そうか。残っていたんだね、その記録」

「知っていたんですか」

「話としてはね。あたしも紙を見たのは若い頃だ。どこにしまったか分からなくなっていた」

 ミラは椅子に座り、帳面を開いた。

「エダさん。治癒の娘は、本当に都へ行ったんでしょうか」

「そう伝わっている。王都だったのか、別の都だったのかまでは分からない」

「その血筋が、都で続いた可能性はありますか」

「あるだろうね」

「もし、その血筋が王都で魔術師の家系になっていたとしたら……」

 ミラはそこまで言って、言葉を止めた。

 あまりに突飛だ。

 自分が、伝承に出てくる娘の末裔かもしれないなど。

 エダは急かさなかった。

 ただ、静かにミラを見ている。

「私は、王都の魔術師の家に生まれました。兄は王立魔術院にいます。でも私は魔術師としては平凡で、治癒魔法だけが得意でした。その治癒魔法も、王都ではあまり評価されなくて」

「それで旅に出たのかい」

「はい」

 ミラはペンダントを取り出した。

「これは母から譲られたものです。母も祖母から受け継いだと言っていました。でも、由来までは知りませんでした」

 エダは白花のペンダントを見つめた。

「女神の紋は、ただの飾りではないよ」

「では、これは……」

「まだ断言はできない」

 エダは穏やかに言った。

「けれど、あんたとこの村に何か縁があるのは、確かかもしれないね」

 ミラの胸が静かにざわめいた。

「縁……」

「ただし、縁があるからといって、すべてを背負わなきゃならないわけじゃない」

 エダの声は柔らかかった。

「女神様の加護だの血筋だの、そういう話は、人を縛ることもある。あんたはまず、治療師として自分にできることをすればいい」

 ミラは目を伏せた。

「私にできること……」

「エリオットの腕を診ることだよ」

 エダはきっぱり言った。

「あの子は、やっと自分の願いを口にしたんだろう。なら、今はその願いを雑に扱わないことだ」

 ミラは頷いた。

「はい」

「分からないことは調べればいい。怖いなら怖いでいい。ただ、あの子の腕は待ってくれないかもしれない」

 その言葉に、ミラは顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「腕の悪いものは、抑えられていただけかもしれない。動き始めたなら、良い方にも悪い方にも変わる」

 ミラの背筋に緊張が走る。

「悪化する可能性もあると」

「あるだろうね」

 エダは窓の外を見た。

「だから慎重に。でも、恐れて止まりすぎてもいけない。治療ってのは、難しいものだね」

 ミラは自分の両手を見つめた。

 昨日まで、この手はただの治療師の手だった。

 包帯を巻き、薬を作り、傷に淡い光を灯す手。

 けれど今は、この手が何か知らない力へ繋がっているかもしれない。

 怖い。

 そう思った。

 けれど同時に、思う。

 エリオットも怖いのだ。

 期待することが。

 また失うことが。

 もう一度剣を握りたいと願うことが。

 それでも彼は今朝、自分の足で診療所へ来た。

 なら、自分も逃げてはいけない。

     *

 その日の夕方、ミラは診療所に戻り、帳面を開いた。

 村長の家で写した記録。

 エダから聞いた話。

 エリオットの診察結果。

 それらを一つずつ整理する。

 治癒の女神。

 治癒の娘。

 戻し手。

 白花の紋。

 都へ発った娘。

 血を継ぐ者。

 エリオットの護符。

 ミラのペンダント。

 魔物の瘴気。

 右腕の魔力路。

 本人の強い願い。

 書けば書くほど、線が繋がりそうになる。

 けれど、決定的なものはまだない。

 ミラは新しいページを開き、ゆっくりと文字を書いた。

 ――私とこの村には、何か関係があるのかもしれない。

 そこまで書いて、筆が止まる。

 かもしれない。

 その先に進む勇気が、まだなかった。

 自分が特別だとは思えない。

 女神に選ばれたとも思えない。

 伝承の血筋だと言われても、あまりに遠い話のように感じる。

 けれど、エリオットの右手が動いたことだけは事実だ。

 その時、扉が控えめに叩かれた。

 ミラは顔を上げる。

「はい」

 扉を開けると、そこにエリオットが立っていた。

 夕暮れの光を背に受けた彼は、朝より少しだけ息が乱れていた。顔色は悪くない。けれど、灰青色の瞳には、抑えきれない何かが揺れている。

「エリオットさん?」

 ミラが一歩近づくと、彼は右手を見せた。

 まだぎこちない。

 震えている。

 けれど、その指先は、確かにわずかに曲がっていた。

「……また、動いた」

 ミラは息を呑んだ。

 エリオットは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

「君に、報告した方がいいと思った」

 その言葉に、ミラの胸の奥が静かに温かくなる。

 治療師として、患者が変化を報告してくれることは大切だ。

 それだけだ。

 そう思ったのに、なぜかその一言は、ただの報告以上の重みを持って聞こえた。

 ミラは帳面を閉じ、まっすぐに彼を見た。

「はい。診せてください」

 エリオットは小さく頷いた。

 彼が差し出した右手首で、女神の護符が淡く光っている。

 そしてミラの胸元では、白い花のペンダントが、同じ光を返していた。



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