父の工房に届いたもの 3
やがてライヘルは、顔を上げた。
「この件を、オルガ・フェンネル管理官に相談します」
「信頼できる人?」
「はい。魔術院の資料管理官です。記録の改ざんを嫌う人で、口も硬い」
「なら、名前だけ出してもいい。標本本体はまだ見せない方がいいかもしれない。必要ならここへ来てもらう」
「魔術院の外へ?」
「工房なら、まだ監視の目は薄いだろう」
「父さんの工房まで巻き込まれます」
「もう巻き込まれている」
オリヴァーは小瓶を見た。
「ミラが送ってきた時点でね」
ライヘルは小さく息を吐いた。
「ユアンにも知らせるべきか迷っています」
「ユアン?」
「エリオットの元同期騎士です。騎士団側の記録を探ってもらっています」
「騎士団側にも味方がいるのか」
「少数ですが」
「なら、標本の話はまだ伏せた方がいい。騎士団内で漏れると危ない」
「はい。彼には、二年前の討伐任務周辺で“黒い触媒”や“瘴気結晶”という言葉が出ていないか、探ってもらう程度にします」
オリヴァーは頷いた。
「それがいい」
ライヘルは手紙をもう一度見た。
ミラの文字。
昔よりずっと整っている。
旅先で何度も記録を書いてきた手だ。
だが、ところどころ筆圧が強い。
迷いながら、それでも伝えるべきことを書いた跡だった。
「ミラは、標本Aを持っています」
ライヘルは低く言った。
「危険なものを」
「そうだね」
「止めるべきでしょうか」
父と兄の間に、重い沈黙が落ちた。
オリヴァーはしばらく考えた。
「父親としては、今すぐ捨てて逃げろと言いたい」
「はい」
「でも、ミラは捨てないだろう」
「でしょうね」
「あの子は、危険だからといって見なかったことにできる性格じゃない。しかも、患者E……エリオット君の腕と関わるならなおさらだ」
オリヴァーは苦く笑った。
「私の娘だからね」
ライヘルは少しだけ目を細めた。
「なら、どうしますか」
「捨てろではなく、扱い方を送る。封印箱の補強方法。携行時の注意。反応が出た時の処置。必要な道具の一覧」
「父さんらしいですね」
「小言も書く」
「それも父さんらしいです」
オリヴァーはほんの少し笑った。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「それから、ライヘル。君からも書きなさい」
「何を」
「ミラに、“一人で判断するな”と」
「もう何度も書きました」
「何度でも書くんだよ。あの子は読んでも、自分のことになると半分忘れる」
「……否定できません」
兄と父は、同時にため息をついた。
その一瞬だけ、重苦しい空気が少し和らいだ。
オリヴァーは標本の金属筒を、工房奥の小型封印庫へ収めた。
封印庫は彼自身が作ったものだ。
貴重品用ではない。危険な試作品や不安定な魔力結晶を一時保管するためのものだった。
扉を閉めると、低い音がして封印術式が起動する。
ライヘルはそれを見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「さすがですね」
「古いものだよ」
「古くても信頼できます」
「そう言ってもらえるなら作った甲斐がある」
オリヴァーは封印庫から手を離した。
「これからどう動く?」
「まずオルガに相談します。ただし標本の実物は持ち込まず、加工痕についてだけ。次に、ユアンへ伝令記録と押収品記録を探ってもらいます」
「この標本の癖、……禁術派という言葉は?」
「まだ出しません。出せば、相手にこちらの認識が伝わる」
「いい判断だ」
ライヘルは父を見る。
「父さんは?」
「私は標本の加工痕を見る。どの系統の封入術式か、工房筋で似たものがないか調べる。ただし、あまり派手には動かない」
「お願いします」
「それから、ミラへの返事を書く」
「はい」
「君も書く」
「はい」
オリヴァーは少しだけ息を吐いた。
「エリオット君にも、何か伝えるべきかな」
ライヘルは一瞬考えた。
「まだ、父さんから直接は早いかもしれません。ただ、ミラ経由で“右腕の封印具や固定具について、工房側から助言できる”と伝えるのはありです」
「なるほど」
「彼はたぶん、ミラや周囲に迷惑をかけていると思うでしょう。支援を受けることにも抵抗があるかもしれません」
「ミラの患者らしいね」
「どういう意味ですか」
「ミラはそういう患者を放っておけないだろう?」
ライヘルは黙った。
否定できなかった。
夕刻、ライヘルは工房を出た。
手紙の写しと、オリヴァーが簡易分析した結果だけを持っている。標本本体は工房の封印庫に残した。
王立魔術院へ戻る道すがら、彼は人混みの中で何度か足を止めた。
つけられている気配はない。
だが、安心はできなかった。
ライヘルは外套の内側に手を当てる。
ミラの手紙の写しがそこにある。
妹は地方で、加工された瘴気の欠片を見つけた。
その瘴気はエリオットの右腕に残るものと似ている。
さらに、王都で消された記録。
地方で見つかった黒い触媒。
そして、二年前に腕を封じられた守護騎士候補。
もう偶然では済まない。
「ミラ」
ライヘルは人混みの中で、小さく呟いた。
「やっぱり、お前は厄介なものを見つけたな」
その声には、心配と、少しだけ誇らしさが混じっていた。
その夜、オリヴァー工房の奥では、小さな封印庫が静かに光っていた。
中には、黒い標本。
外からは見えない。
けれど、その奥で、細い黒い筋がほんの一瞬だけ脈打った。
同じ頃、王立魔術院の古文書庫では、オルガ・フェンネルが一冊の古い目録を開いていた。
彼女はまだ、ライヘルから詳しい話を聞いていない。
だが、封印資料の棚の奥にある一項目が、なぜか気になっていた。
――瘴気封入触媒。
――押収品分類記録。
――二年前、南西辺境討伐任務関連。
その目録の本文は、やはり抜かれていた。
オルガは目を細める。
「また、空白かい」
低い声が、古文書庫に落ちる。
消された記録と、届いた標本。
王都側の欠片もまた、少しずつ同じ黒へ近づき始めていた。




