残すもの、持っていくもの 3
夕方、村長の家で今後の対応を話し合った。
ミラは帳面を開き、確認した内容を一つずつ伝える。
「黒い欠片は旧道の入口から倒木周辺に集中しています。奥へ向かう轍はありますが、この村の生活圏内で確認された欠片は回収しました」
「では、村に残る危険は?」
村長が尋ねる。
「ゼロとは言えません。ですが、旧道を封鎖し、子どもを近づけなければ、すぐに大きな被害が出る状態ではないと思います」
「そうか」
「熱を出していた子どもも快方に向かっています。他に似た症状は今のところありません」
村長はほっと息を吐いた。
「ありがたい」
「ただし、今後もし黒い石や粉を見つけた場合は、絶対に触らないでください。水で洗い流そうとするのも危険です。布や木の棒で動かすのも避けてください」
「分かった。必ず知らせるよう村に伝える」
「私は明日ももう一度診療します。明後日の朝、問題がなければ出立します」
村長は驚いたように顔を上げた。
「もう行くのかい」
「もともと五日ほどの予定でした。ただ、長く留まりすぎるのもよくありません。次の町で封印容器や薬草を補充する必要もあります」
ミラは少しだけ言葉を選んだ。
「それに、この欠片のことは、もっと情報の集まる場所で調べるべきだと思います」
「……王都か」
「最終的には。ただ、まずは次の町で」
村長はしばらく考えてから頷いた。
「分かった。ミラさんには十分すぎるほど世話になった。残りの診療と、明後日の馬車の手配はこちらでする」
「ありがとうございます」
その横で、エリオットは黙って聞いていた。
明後日。
出立の日が決まった。
この村で、まだ少しできることがあるかもしれない。
旧道の奥を追えば、もっと手がかりが掴めるかもしれない。
だが、今の自分たちには限界がある。
追うべきものと、残すべきものを選ばなければならない。
それもまた、旅なのだろう。
夜、診療所へ戻ると、ミラは封じた黒い核をもう一度確認した。
封じ布。
白花。
泉の水。
浄化済みの灰色の欠片。
微量の粉末を入れるための小瓶。
次の町で、これをもっと安全な容器に入れ替える。
そして、ライヘルへ送るものを選ぶ。
ミラは小瓶を持ち上げた。
「この粉末は兄に送ります。ただし、ほんの少しだけです。分析に足りる量で、危険が少ない量」
「手紙は?」
エリオットが尋ねる。
「次の町で安全な便が見つかれば。なければ、持ったまま進みます」
「君の父親の工房へ送るのは?」
「その方が魔術院へ直接送るより安全かもしれません。父は魔道具に詳しいので、封印容器のことも相談できます」
「父親にも巻き込むことになる」
エリオットの声には、申し訳なさがあった。
ミラは首を横に振る。
「父は、必要ならきっと助けてくれます。もちろん、全部は書きません。危険があることも考えます」
「……俺のことばかりで、君の家族まで」
「エリオットさん」
ミラは彼を見た。
「これは、あなた一人のことではなくなっています。黒い欠片で子どもが熱を出しました。今も誰かが危険なものを運んでいるかもしれません。だから、調べる必要があります」
「それでも、最初のきっかけは俺の腕だ」
「違います」
ミラの声は静かだった。
「最初のきっかけは、誰かがあなたの腕を壊したことです」
エリオットは息を止めた。
「あなたが巻き込んだんじゃありません。あなたも巻き込まれた人です」
ミラはそう言ってから、少しだけ表情を和らげた。
「だから、できることを一緒に数えましょう。今は、記録すること。危険なものを安全に保管すること。村の人に警戒を伝えること。次の町で容器を探すこと」
エリオットはしばらく黙っていた。
そして、低く答えた。
「ああ」
「痛みは?」
「……二」
「熱は?」
「少し。強くはない」
「それも、今できることの一つです。ちゃんと報告できています」
「子ども扱いだな」
「治療師扱いです」
「それは君だろう」
ミラは思わず笑った。
エリオットも、ほんの少しだけ笑った。
薄い仕切りの向こうとこちら。
同じ屋根の下。
机の上には、黒い核が封じられている。
危険なものを抱えたままの夜だった。
けれど、二人の間には不思議と静かな落ち着きがあった。
翌日、ミラは最後の診療日として村人たちを診て回った。
熱を出した少年は寝台から起き上がれるようになり、足を痛めた老人は固定した足で上手く歩く練習を始めた。出産を控えた若い女性には、無理をしない姿勢と薬草茶の量を伝えた。
エリオットは、前日よりさらに控えめに手伝った。
それでも、彼が立っていると患者の動きが整う。
子どもが泣きそうになれば、少し離れたところから声をかける。
老人が立ち上がる時は、左側に立つ。
ミラが道具を探す前に、必要な布を左手で差し出す。
ミラは診療の合間に、ふとエリオットを見た。
彼はまだ患者だ。
右腕は不安定で、痛みも残っている。
けれど、それだけではない。
彼はもう、自分を「何もできない人間」とは少しずつ思わなくなっている。
その変化が、ミラには嬉しかった。
夕方、診療が終わった後、ミラは帳面に最後の村内記録を書いた。
――滞在五日目終了。
――黒い欠片による追加患者なし。
――旧道封鎖済み。村長へ対応説明済み。
――弱い欠片は浄化。強い核は封印し携行。
――次の町で封印容器、包帯、清潔な布、魔力結晶を補充予定。
――ライヘル兄さんへ、記録と微量標本を送るか検討。
そして少し迷ってから、もう一行加える。
――エリオットさん、診療補助時の判断良好。右腕使用なし。自分のできる範囲を理解し始めている。
エリオットが横から覗き込む。
「また余計な一文を書いたな」
「はい」
「俺の腕の記録ではない」
「治療記録です」
「便利な言葉だ」
「気に入ってきましたか?」
「……少し」
意外な返事だった。
ミラが顔を上げると、エリオットは視線を逸らした。
「できることが書かれているのは、悪くない」
ミラの胸が、じんわり温かくなる。
「では、これからも書きます」
「ああ」
エリオットは短く頷いた。
外では、明日の出立に備えて村長が馬車の手配をしている声が聞こえていた。
この村でできることは、すべてではない。
だが、今できることはした。
残すものと、持っていくものを選び、二人はまた次の道へ進む。
黒い核を抱えて。
記録帳を抱えて。
まだ名のない信頼を、少しずつ積み重ねながら。




