黒い石のでどころ 1
その夜、ミラは浅い眠りの中で目を覚ました。
最初に感じたのは、胸元の温もりだった。
白花のペンダントが、夜具の下でじんわりと熱を帯びている。熱いというほどではない。けれど、眠っていても気づくほどにははっきりとした反応だった。
ミラはすぐに身を起こした。
奥の小部屋は暗い。窓の外では、夜風がかすかに草を揺らしている。村は静まり返っていて、人の声は聞こえない。
けれど、手前の診療部屋から、小さな布の擦れる音がした。
「エリオットさん?」
声をかけると、すぐに低い返事があった。
「起こしたか」
「いえ。ペンダントが反応しました。腕ですか?」
「腕も少し熱い。だが、それより……あの石だ」
ミラは上着を羽織り、灯りを手に手前の部屋へ出た。
エリオットは寝台から半身を起こし、右手首の護符を左手で押さえていた。護符には、白花と剣の紋がうっすら浮かんでいる。
その視線の先に、ミラが何重にも封じた黒い欠片があった。
机の上。
白花を挟んだ封じ布の中で、それは小さく脈打つように黒い気配を漏らしていた。
ミラは息を呑む。
「封じ布越しに、まだ漏れている……」
「ああ。さっきから、嫌な感じが強くなった」
「痛みは?」
「二。熱は手首だけ」
「すぐ診ます。ですが、まず石を確認します」
ミラは灯りを机に置き、慎重に封じ布へ手をかざした。
黒い欠片から漏れる瘴気は、少年の体内にあった時よりも弱い。
けれど、質が悪い。
薄く広がるのではなく、中心に粘るような芯がある。
エリオットの腕に残る黒い靄と、どこか似ていた。
「このまま置いておくのは危険ですね」
「壊せるのか」
「分かりません。完全に壊すのは危険かもしれません。中の瘴気が一気に出る可能性があります」
ミラは一度深く息を吸った。
「表面の瘴気だけでも剥がして、核を封じ直します」
「俺は何をすればいい」
その問いが、以前より自然だった。
手伝えることがあるなら言ってくれ。
そう彼は言った。
ミラは頷く。
「石の中の黒い芯が動いたら教えてください。私は瘴気を包んで、石から剥がします。でも、芯の位置はエリオットさんの方が分かると思います」
「分かった」
「ただし、右腕に力を入れないでください。護符に左手を添えるだけです」
「ああ」
ミラは机の上を整えた。
白花を四方に置き、祠の泉の水を一滴ずつ垂らす。小型の魔力結晶をそばへ置き、黒い欠片を封じ布ごと中央に移した。
灯りの炎が、小さく揺れる。
エリオットは机の反対側に座り、左手で護符を押さえた。右腕は布で支えたままだ。
ミラは封じ布を少しだけ開く。
黒い欠片が姿を現した。
木片にも石にも見えるそれは、指先ほどの大きさしかない。だが表面には黒い筋が走り、夜の闇より濃いものを内側に抱えていた。
魔力結晶の中に、黒い線が走る。
ミラのペンダントが温かくなる。
「始めます」
ミラは掌を黒い欠片の上にかざした。
白花のような光が、ゆっくりとほどける。
少年の治療の時より、ずっと細く、慎重に。
傷を塞ぐのではない。
熱を下げるのでもない。
黒い石に絡みついた異物を、本来あるべき場所から引き離す。
ミラの魔力が欠片を包んだ瞬間、黒い筋がぬるりと動いた。
エリオットが目を細める。
「表面じゃない。奥にある。右下……いや、今動いた。左へ逃げる」
「左ですね」
ミラは魔力を左側へ回した。
黒い気配が、逃げるように石の内部を滑る。
ただの石ではない。
これは、瘴気を吸った自然物ではない。
瘴気を留めるために、何かを加工したものだ。
ミラはそう直感した。
「芯が沈んだ」
エリオットの声が低くなる。
「もっと奥だ。表面だけ剥がれている」
「分かりました」
ミラは白花の光を強めた。
黒い欠片の表面から、薄い靄が剥がれ始める。
じゅ、と小さな音がした。
泉の水に触れた瘴気が、煙のようにほどける。
けれど、中心の黒い核は動かない。
むしろ、奥で硬く閉じこもる。
「だめです。核が残ります」
「その核が、こちらを見ているような感じがする」
「見ている?」
「ああ。石なのに、生き物の目みたいだ」
その言葉に、ミラの背筋が冷えた。
その瞬間、黒い欠片がびくりと震えた。
封じ布が跳ねる。
黒い瘴気が細い針のようにミラの手へ向かって伸びた。
「ミラ!」
エリオットの声と同時に、彼の右手が動いた。
使うなと言っていた右手。
まだ力を込めてはいけない手。
だがその指先が、ほんのわずかに曲がる。
護符から白い刃のような光が走った。
光は一瞬だけ、黒い針を断つように閃いた。
黒い欠片の表面に、細い亀裂が入る。
ミラはその隙を逃さなかった。
剥がれた瘴気を白花の光で包み、泉の水へ落とす。黒い靄が音もなく薄れ、空気に溶けるように消えた。
机の上が静まり返る。
黒い欠片は、先ほどよりも小さく見えた。
表面の黒い筋は薄くなっている。
けれど中心には、まだ小さな黒い核が残っていた。
まるで、石の奥に沈んだ瞳のように。
ミラは急いで封じ布を重ね、白花と泉の水で包み直した。さらに魔力結晶を添え、封印用の紐で結ぶ。
護符の光がゆっくり弱まった。
エリオットが低く息を吐く。
「痛みは?」
ミラはすぐに彼の右腕へ向き直った。
「三……いや、四に近い」
「熱は?」
「手首から肘まで」
「右手を動かしましたね」
「……動いた」
「動かした、ではなく?」
「半分は勝手に動いた。君に向かった黒いものを見たら、止まらなかった」
ミラは彼を責めなかった。
ただ、すぐに泉の水を薄く含ませた布を右腕へ当てる。
「今は冷やします。呼吸をゆっくり」
「すまない」
「謝らないでください。助かりました」
エリオットは目を伏せた。
「俺は、また無理をした」
「無理をしたのは事実です。でも、今の反応で分かったこともあります」
ミラは彼の手首を支えながら言った。
「あなたの白い光は、黒い瘴気を断とうとします。ただ、今の右腕ではその力に耐えられません」
「剣を振れないのと同じか」
「似ていると思います。力があっても、通る道が壊れている」
エリオットは自分の右腕を見下ろした。
「なら、道を戻す必要がある」
「はい」
ミラは静かに頷いた。
「それが、私の治療です」
手首の熱が少しずつ引いていく。
痛みはまだある。
けれど、黒い石の反応は落ち着いていた。
ミラは封じた石を見つめる。
「表面の瘴気はかなり薄くなりました。でも、中心の核は残っています」
「完全には消せないのか」
「今の私たちでは、危険です。無理に壊せば瘴気が広がるかもしれません」
「では、どうする」
「封じて持っていきます」
ミラは答えた。
「これは兄に見せる必要があります。王都の記録と関係があるかもしれませんし、エリオットさんの腕に残っているものとも似ています」
「証拠か」
「はい」
エリオットはしばらく黒い包みを見ていた。
「この村に置いていくより、その方がいい」
「私もそう思います。ただし、これがどこから来たのかは調べないといけません」
「あの子が拾った場所か」
「はい。林の小道です」
夜の空気が、少し重くなる。
この村に、まだ同じものが落ちているかもしれない。
子どもが拾える場所に、瘴気を帯びた欠片があった。
偶然で済ませるには危険すぎる。
エリオットは右腕を押さえたまま言った。
「明日、調べよう」
「あなたは休むべきです」
「俺がいなければ、瘴気の位置が分からないかもしれない」
ミラはすぐには返せなかった。
それは事実だった。
「なら、条件があります」
「何だ」
「調査は短時間。右腕の状態を確認してから。痛みが三を超えたら戻る。黒いものに触れない。剣の光が反応しても、勝手に断とうとしない」
「……多いな」
「必要です」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
ミラは彼の顔をじっと見た。
エリオットは逃げずにその視線を受け止める。
以前の彼なら、きっと「大丈夫だ」と言って押し通しただろう。
けれど今は違う。
ミラは小さく息を吐いた。
「では、明日の朝、腕を診てから決めます」
「ああ」




