できることを数える日 2
昼過ぎ、診療が一段落すると、ミラはエリオットの右腕を確認した。
椅子を動かし、水を汲み、患者を案内しただけでも、右腕には少し熱が出ていた。身体全体を使えば、右腕を直接使わなくても負担はかかる。
「痛みは?」
「二」
「熱は手首中心ですね。今日はもう手伝いは控えめにします」
「まだできる」
「できます。でも控えます」
「……分かった」
エリオットは悔しそうではあったが、素直に頷いた。
ミラは湿布を作り、手首に当てる。
護符は穏やかに光っていた。白花と剣の紋は薄い。黒い瘴気も暴れてはいない。
「悪くない反応ですね」
「なら、もっと動いても」
「いけません」
「言う前に止めるな」
「言いそうだったので」
エリオットは口を閉じた。
図星だったらしい。
ミラは帳面に書き込む。
――午前診療補助。右腕直接使用なし。痛み二。熱感軽度。本人、追加作業希望あり。制止に従う。
「最後の一文はいるのか」
「とても重要です」
「俺は、ずいぶん従う人間になったな」
「良いことです」
「騎士団の教官が聞いたら驚く」
「騎士団では従わなかったんですか?」
「命令には従った」
「では何に従わなかったんですか」
「休めという指示」
「……なるほど」
ミラは深く納得した。
エリオットは少し気まずそうに目を逸らす。
「今は従っています」
「君が怖いからな」
「怖くありません」
「少し怖い」
そんなやり取りをしていると、外から小さな足音が近づいてきた。
扉の前で、ためらうような声がする。
「あの……治療師さん、いますか」
ミラはすぐに立ち上がった。
扉を開けると、そこに立っていたのは十歳くらいの少女だった。腕の中に、小さな布袋を抱えている。目元が不安そうに揺れていた。
「どうしましたか?」
「弟が、また熱を出して……さっき診てもらった子じゃなくて、うちの弟です。昨日から熱が下がらなくて、母さんが、来てほしいって」
「分かりました。すぐ行きます」
ミラは鞄を手に取った。
エリオットも立ち上がる。
「俺も行く」
「休んでいてください」
「案内役がいる。道が分からないだろう」
少女がエリオットを見上げる。
「うち、村の端っこ。少し遠いよ」
ミラはエリオットの腕を見る。
熱は軽い。
痛みは二。
村の中の移動なら、無理をしなければ可能だろう。
「では、歩く距離を見ます。痛みが三を超えたら言ってください」
「ああ」
「絶対に」
「分かっている」
エリオットは杖を取り、少女に視線を合わせるように少しかがんだ。
「案内してくれるか」
少女はこくりと頷いた。
少女の家は、村の外れにあった。
畑と林の境に建つ小さな家で、庭には薬草らしい草がいくつか干してある。中に入ると、母親が青ざめた顔で出迎えた。
「治療師さん、すみません。昨日から熱が高くて、薬草茶を飲ませてもあまり……」
「診ます」
寝台には、六歳ほどの男の子が横になっていた。
額には汗。
頬は赤い。
呼吸は少し浅い。
ミラは額、喉、胸の音を確認し、脈を取る。
風邪に似ている。
だが、何かが違った。
体温の高さに対して、手足の冷えが不自然だ。
そして、皮膚の下に、ほんの薄い黒い靄のような気配が見える。
ミラは眉をひそめた。
「……いつからですか」
「昨日の夕方からです。昼に林の近くで遊んでいて、帰ってきたら寒いと言い出して」
「林?」
「はい。村の外れの古い小道の方で……でも、魔物が出るような場所じゃありません」
ミラは少年の手に触れた。
冷たい。
ただの熱病なら、ここまで魔力の流れが乱れることは少ない。
ミラは小型の魔力結晶を取り出し、少年の胸元の近くに置いた。
透明な結晶の中に、かすかな黒い筋が走る。
エリオットが、わずかに息を呑んだ。
ミラは彼を見る。
「どうしましたか」
「……嫌な感じがする」
「腕ですか?」
「腕というより、胸の奥だ。あの子の周りに、薄い黒いものがある」
ミラの心臓が強く打った。
エリオットにも見えている。
いや、見えているというより、感じ取っているのかもしれない。
瘴気を。
「エリオットさん、どこに強く感じますか」
ミラは静かに尋ねた。
エリオットは少年のそばに近づきすぎない位置で立ち、目を細める。
「胸ではない。喉でもない。……右の脇腹のあたり」
ミラはすぐに少年の右脇腹へ手を当てた。
確かに、そこだけ魔力の流れが妙に沈んでいる。
黒い靄が、薄い棘のように刺さっている。
ミラだけでは、おそらく見落としていた。
熱病の症状に紛れて、全身を診て終わっていたかもしれない。
「ここですね」
ミラは呟いた。
エリオットの護符が、淡く光る。
同時に、ミラの白花のペンダントも温かくなった。
母親が怯えた声を上げる。
「何か悪い病なんですか?」
ミラはすぐに顔を上げた。
「落ち着いてください。熱はありますが、今すぐ命に関わる状態ではありません。ただ、普通の熱病とは少し違う反応があります」
「違う……?」
「林で何かに触れた可能性があります。小さな棘、黒い草、変わった石、そういうものを持ち帰っていませんか?」
母親ははっとしたように、布袋を見た。
少女が持っていた布袋だった。
「これ……弟が拾った木の実です」
少女が不安そうに差し出す。
ミラが袋を受け取ろうとした瞬間、エリオットが鋭く言った。
「待て」
ミラの手が止まる。
エリオットは袋を見ていた。
灰青色の瞳が、険しくなっている。
「それから離れた方がいい」
少女は慌てて布袋を床に置いた。
ミラは魔力結晶を近づける。
結晶の中に、黒い筋が先ほどより濃く走った。
布袋の中には、木の実に混じって、小さな黒ずんだ欠片が入っていた。
木片にも石にも見える。
だが、その表面にはぬめるような黒い気配がまとわりついている。
「瘴気……」
ミラは小さく呟いた。
エリオットの右手首の護符が、今度ははっきりと光った。
白花と剣の紋が浮かぶ。
少年の脇腹に沈んでいた黒い気配が、わずかに震えた。
ミラは息を整える。
怖がらせてはいけない。
母親も、少女も、不安でこちらを見ている。
「この欠片には触らないでください。私が処置します」
「治るんですか?」
母親が震える声で尋ねる。
ミラは少年を見た。
黒い靄は薄い。
エリオットの腕に残る瘴気ほど深く根を張ってはいない。
今なら、きっと。
「治します」
言った瞬間、ミラ自身がその言葉の強さに驚いた。
けれど、撤回しなかった。
エリオットが静かにミラを見た。
「俺にできることは?」
ミラは少し考え、答えた。
「その黒い気配が動いたら、教えてください。私は熱を下げるのではなく、刺さっている黒いものを抜くように治療します」
「分かった」
「ただし、腕に力を入れないでください。感じ取るだけです」
「ああ」
ミラは少年の右脇腹に手を当てた。
白花のペンダントが温かくなる。
壊れたものを戻す。
乱れた流れを、本来あるべき道へ。
だが、その前に。
何を戻すべきか。
どこに刺さった黒いものを抜くべきか。
エリオットの声が落ちる。
「少し動いた。下へ逃げようとしている」
「下ですね」
ミラは魔力の流れを変えた。
少年が苦しげに眉を寄せる。
母親が息を呑む。
「大丈夫です」
ミラは静かに言った。
「すぐ楽になります」
白い花のような光が、ミラの掌からほどける。
その光は少年の脇腹に沈み、黒い棘のような瘴気を包んだ。
だが、黒いものは抵抗する。
熱が上がる。
少年の呼吸が乱れる。
エリオットの護符が強く光った。
「そこだ」
彼の声が低く響く。
「今、浮いた」
ミラは迷わなかった。
白い光を細く絞り、黒い棘の根元へ流す。
抜くのではなく、戻す。
身体に刺さった異物を、異物として外へ押し出す。
次の瞬間、少年が小さく咳き込んだ。
黒い靄が、口元からほんの一筋だけ漏れた。
それは空気に触れた途端、薄くほどける。
ミラはすぐに浄化用の布をかざし、残った気配を吸わせた。
魔力結晶の黒い筋が、ゆっくりと薄くなる。
少年の呼吸が落ち着いた。
頬の赤みも、少し和らいでいる。
「……熱が、下がり始めています」
ミラは静かに言った。
母親が崩れるように膝をつき、少年の手を握った。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
ミラは首を横に振る。
「まだ油断はできません。今夜は様子を見ます。水を少しずつ飲ませてください。汗をかいたら着替えを。黒い欠片には誰も触らないでください」
そう言って、布袋の中の黒い欠片を専用の封じ布で包む。
エリオットは黙ってそれを見ていた。
右手首の護符の光は、少しずつ弱まっている。
ミラは彼に近づいた。
「腕は?」
「……痛み三」
「熱は?」
「少しある」
「すぐ戻って診ます」
「ああ」
エリオットは素直に頷いた。
けれどその顔には、疲労だけではないものが浮かんでいた。
驚き。
困惑。
そして、かすかな確信。
自分は、あの黒い気配を感じ取った。
ミラは、それを頼りに治療した。
それが何を意味するのか、二人ともまだ言葉にできなかった。
空き家へ戻る道で、夕暮れの光が村を赤く染めていた。
ミラは封じ布に包んだ黒い欠片を鞄の奥へしまい、何度も確認した。瘴気は薄いが、放置すれば危険だ。
エリオットは黙って隣を歩いていた。
少し疲れている。
右腕の熱もある。
だが、その足取りは乱れていなかった。
「エリオットさん」
「何だ」
「さっき、どこに瘴気があるか分かったんですね」
「ああ」
「いつからですか」
「分からない。ただ、あの子を見た時、嫌な感じがした。黒いものが、そこだけ濃く見えた」
「見えた?」
「見えたような気がした。感覚に近い」
ミラは頷いた。
「私も、似たような感じで見ています」
「君も?」
「はい。ただ、私は全体の乱れを見ます。エリオットさんは……たぶん、瘴気そのものを捉えていました」
エリオットは右手首の護符を見下ろした。
「魔を断つ力、か」
初めて、彼自身がその言葉に近いものを口にした。
ミラはすぐには答えなかった。
「まだ、断定はできません」
「君はそう言うと思った」
「でも」
ミラは足を止めた。
「今日の治療は、私一人では難しかったと思います」
エリオットも止まる。
「あなたが黒い気配の位置を教えてくれたから、私はそこを治療できました」
「俺は、見ていただけだ」
「見つけることが必要でした」
ミラは真っ直ぐに言った。
「戻す前に、何を取り除くべきか分からなければ、治療はできません」
エリオットは黙った。
夕暮れの風が、二人の間を通る。
ミラは少しだけ表情を和らげた。
「今日のことも、記録します」
「俺の腕のことではない」
「治療記録です」
「……便利な言葉だな」
「はい」
エリオットは小さく息を吐いた。
けれど、拒まなかった。
その夜、ミラはいつもより長く帳面に向かった。
少年の症状。
黒い欠片。
薄い瘴気。
エリオットが瘴気の位置を感じ取ったこと。
ミラの治癒魔法が、黒い棘を外へ押し出したこと。
そして、エリオットの右腕の反応。
――治療中、エリオットさんの護符に白花と剣の紋。右腕に軽度熱感。痛み三。瘴気感知後、疲労あり。
――私の治癒は“戻す”力。エリオットさんの反応は“見つける”あるいは“断つ”力に近い可能性。
――二つが揃うことで、瘴気に当てられた患者の治療精度が上がった。
そこまで書いて、ミラは筆を止めた。
分からないことはまだ多い。
けれど今日、ひとつ分かったことがある。
ミラとエリオットの力は、別々に存在しているだけではない。
並んだ時、互いを補う。
戻す手。
見つける目。
いつか、断つ剣。
ミラは胸元のペンダントに触れた。
白い花は、静かに温かい。
手前の部屋では、エリオットが寝台に腰掛けている気配がした。まだ眠ってはいないのだろう。
「エリオットさん」
薄い仕切り越しに声をかける。
「何だ」
「腕、痛みますか?」
「二。熱は引いてきた」
「よかったです」
少し沈黙があった。
やがて、エリオットの声が返る。
「ミラ」
「はい」
「今日、俺は役に立ったのか」
静かな問いだった。
ミラは帳面を閉じ、仕切りの向こうへ向き直った。
「はい」
迷わず答える。
「とても」
向こうで、エリオットが息を吐く気配がした。
「そうか」
「はい」
「……なら、明日もできることをする」
「無理のない範囲で」
「分かっている」
その返事は、以前よりずっと穏やかだった。
ミラは小さく笑う。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
知らない村の夜が、静かに更けていく。
患者と治療師。
今はまだそれ以上でもそれ以下でもない距離。
けれど、同じ屋根の下で、互いのできることをひとつずつ数える夜だった。




