できることを数える日 1
新しい村での一日は、朝の診察から始まった。
まだ陽が昇りきらないうちから、ミラは空き家の手前の部屋を整えていた。昨日の夜に診療所として使った部屋には、椅子が二脚、机が一つ、村長の妻が用意してくれた清潔な布と水差しが置かれている。
奥の小部屋はミラの寝室。
手前の診療部屋の隅に、エリオットの簡易寝台。
同じ屋根の下ではあるが、部屋は分かれている。
村長夫妻にも事情は説明済みで、この家はあくまで「治療師の診療所」として扱われることになった。
それでも、エリオットは朝から少しだけ居心地が悪そうだった。
「眠れましたか?」
ミラが尋ねると、エリオットは寝台から起き上がりながら答えた。
「眠った」
「よく眠れた、ではなく?」
「……夜中に一度起きた」
「痛みですか?」
「いや。物音で」
「物音?」
「君が奥で咳をした」
ミラは一瞬、きょとんとした。
「咳?」
「ああ」
「それで起きたんですか?」
「……同じ屋根の下で、女性が咳き込んだら気になるだろう」
あまりに真面目な声だった。
ミラは少しだけ瞬きをしてから、苦笑した。
「乾燥していただけです。心配ありません」
「そうか」
「でも、ありがとうございます」
エリオットは視線を逸らした。
「礼を言われることじゃない」
「騎士の習慣ですか?」
「……たぶん、そうだ」
ミラはそれ以上からかわなかった。
彼は恋愛感情でそうしているわけではない。
ただ、女性を守るべき相手として気遣う。人が不調を見せれば気づく。近くにいる者に危険がないかを確認する。
騎士として染みついたものなのだろう。
そして、それは右腕を失っても消えていない。
「では、今度は私が確認します。右腕を見せてください」
ミラが言うと、エリオットは素直に椅子へ移動し、右腕を机の上に置いた。
すっかり慣れた動きだった。
「痛みは?」
「一。動かすと二」
「熱は?」
「ほとんどない」
「痺れは?」
「薬指と小指に少し。親指と人差し指は昨日より楽だ」
「指を動かしてみてください」
エリオットは右手を見下ろし、親指を曲げた。
次に人差し指。
中指はまだ少し遅れる。薬指と小指はわずかに震えるだけだ。
それでも、最初に比べれば明らかに反応が増えている。
ミラは帳面に記録した。
――滞在二日目朝。痛み一〜二。熱感ほぼなし。親指・人差し指の動き良好。中指反応遅延。薬指・小指は微弱。
書きながら、ミラは付け加える。
「今日は診療の手伝いは少なめにします。昨日の疲れが残っていないか見たいので」
「手伝える」
「手伝えることと、手伝ってよいことは違います」
「……またそれか」
「またです」
エリオットは小さく息を吐いた。
だが、反論はしなかった。
それもまた、記録すべき変化だった。
午前の診療には、村人たちが順番にやって来た。
喉を腫らした子ども。
足首をひねった老人。
出産を控えた若い女性。
畑仕事で手を切った青年。
薬草の飲み合わせを聞きに来た老婆。
ミラはひとりひとりを丁寧に診た。
エリオットは、ミラに言われた範囲で手伝った。
椅子を引く。
順番を待つ者に声をかける。
水を汲む。
重くない薬箱を左手で運ぶ。
子どもが怖がらないよう、少し離れたところに立つ。
途中、熱を出した少年が泣きそうになった。
ミラが額に手を当てると、少年は緊張で肩を強張らせた。見知らぬ治療師に診られるのが怖いのだろう。
その時、エリオットが少し離れた場所から低く言った。
「大丈夫だ。痛いことはしない」
少年が涙目でエリオットを見る。
「ほんと?」
「ああ。痛いことをする時は、先に言う人だ」
「……おじさんも診てもらったの?」
エリオットは一瞬だけ固まった。
ミラは咳き込みそうになるのをこらえた。
エリオットは二十三歳だ。
少年からすれば大人の男は皆おじさんなのかもしれない。
「……診てもらっている」
「痛かった?」
「少し」
「泣いた?」
「泣いてはいない」
少年はじっとエリオットを見つめた。
「じゃあ、ぼくも泣かない」
「そうか」
エリオットは真面目に頷いた。
ミラはその間に診察を終える。
喉の腫れはあるが、高熱ではない。薬草茶と休息で様子を見られる状態だった。
「よくできました」
ミラが言うと、少年は得意げに胸を張った。
その後、母親に連れられて帰る時、少年はエリオットに手を振った。
「おじさんもがんばってね!」
エリオットは無言で固まった。
少年が出ていったあと、ミラはついに小さく笑ってしまった。
「……笑うな」
「すみません」
「俺はまだおじさんではない」
「子どもから見れば、立派な大人です」
「君もだろう」
「私はお姉さんでした」
「なぜだ」
真剣に不服そうだった。
ミラはまた笑いそうになり、帳面で口元を隠した。
エリオットがこちらを睨む。
けれど、その目は少しも怖くなかった。




