診療所の夜 3
食事の後、ミラはエリオットの右腕を診た。
夕方の診療を手伝った影響で、手首に少し熱が出ていた。だが強くはない。
「痛みは?」
「二。動いた時に三」
「熱は軽度。今日はこれ以上動かさないでください」
「ああ」
「夜間に痛みが強くなったら呼んでください」
「……それなんだが」
エリオットは少し言いづらそうに眉を寄せた。
「夜中に、君の部屋の戸を叩くわけにはいかない」
ミラは首を傾げた。
「でも、痛みが強くなったら呼んでください」
「だから、そういう問題では」
「患者さんが痛みを我慢する方が問題です」
あまりにも真顔だった。
エリオットは深く息を吐く。
「君は本当に、治療師としては正しい」
「治療師ですので」
「だが、俺は男で、君は女性だ」
「部屋の戸を開けたまま診ます。必要なら村長の奥さんを呼びます」
「そういう対策がすぐ出るんだな」
「はい」
ミラは真剣に頷いた。
「夜間の対応は大事ですから」
エリオットはしばらく彼女を見ていた。
そして、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「分かった。痛みが強くなれば呼ぶ」
「必ずです」
「必ず」
「では、約束です」
「ああ」
約束。
その言葉は、最近二人の間で少しずつ増えている。
無理をしないこと。
痛みを隠さないこと。
旅を続けるために、止まるべき時は止まること。
どれも治療の約束だ。
けれど、エリオットはふと、その約束を破りたくないと思った。
ミラに叱られるからではない。
彼女に心配をかけたくないからでもある。
それがいつからなのか、まだ彼自身にも分からなかった。
夜、ミラは奥の小部屋で帳面を開いた。
手前の部屋では、エリオットが寝る支度をしている気配がする。床板が小さく鳴り、椅子が動く音がした。
同じ屋根の下。
そのことを、ミラは特に深く意識していなかった。
正確には、治療師として必要な距離だと判断していた。
夜間に腕の熱が上がるかもしれない。
瘴気が暴れるかもしれない。
護符が反応するかもしれない。
その時、すぐ診られることが大切だった。
ただ、エリオットが自分の評判を気にしてくれたことは、少し胸に残っていた。
彼は、そういう人なのだ。
自分がどう思われるかより、相手が傷つかないかを先に考える。
それはきっと、騎士として身についた振る舞いでもあり、彼自身の性格でもある。
ミラは今日の記録を書き込んだ。
――新しい逗留先到着。滞在予定五日、最大七日。
――同一建物内で夜間観察。部屋は分離。村長夫妻了承済み。
――夕方診療時、エリオットさんが患者誘導を補助。右腕使用なし。痛み二〜三、熱感軽度。
――本人、女性への配慮・世間体を強く気にする傾向。騎士としての礼節によるものと思われる。
――患者としての自覚は進んでいるが、同時に“役に立ちたい”意識も見られる。
そこまで書いて、ミラは筆を止めた。
最後の一文を見つめる。
役に立ちたい。
それは治療とは直接関係ないようで、きっと大いに関係がある。
エリオットが自分を「何もできない人間」だと思わなくなること。
できることを少しずつ増やしていくこと。
それもまた、彼が剣を取り戻す道に繋がっている。
ミラは帳面を閉じた。
手前の部屋から、エリオットの低い声が聞こえた。
「ミラ」
「はい?」
「灯りは、そちらで消せるか」
「はい。大丈夫です」
「……何かあれば呼べ」
ミラは少し瞬きをした。
普通なら、それは治療師が患者に言う言葉だ。
けれどエリオットは、ごく自然にそう言った。
女性を一人で奥の部屋に寝かせることへの、騎士としての気遣いなのだろう。
ミラは小さく笑った。
「ありがとうございます。エリオットさんも、痛みがあれば呼んでください」
「ああ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
短い挨拶が、薄い壁越しに交わされる。
恋ではない。
まだ、そんな名前はどこにもない。
ただ、同じ屋根の下で、互いの無事を確かめ合う夜だった。
外では、知らない村の夜風が窓を揺らしている。
ミラは白花のペンダントを握り、静かに目を閉じた。
旅はまだ始まったばかりだ。
けれど、二人は少しずつ、同じ道を歩くための距離を覚え始めていた。




