診療所の夜 2
その日の夕方、ミラはさっそく診療を始めた。
熱を出していた子どもは、幸い重症ではなかった。喉の腫れと軽い熱。薬草茶と休息で様子を見ることになった。
足を痛めた老人は、畑で転んだ時に足首をひねっていた。こちらは固定が必要だった。
エリオットは、ミラに言われた通り、集会所から空き家まで患者を案内する役を担った。
もちろん右腕は使わない。
左手で扉を開ける。
椅子の位置を整える。
足の悪い老人が座る時に、身体の横に立って支えられる位置を取る。
子どもが怖がらないよう、少し離れて立つ。
それは騎士として身についた所作だった。
誰かを急かさない。
相手の退路を塞がない。
不安が強い者の前では、声を低く落とす。
ミラは診療をしながら、それに気づいていた。
エリオットは、自分では「手伝い」と思っているのかもしれない。
けれど、彼がそこにいるだけで患者の動きが整う。
足を痛めた老人が椅子に腰掛ける時、エリオットは自然に左側へ立った。
「こちらに体重を預けてください」
「すまんねえ、若いの」
「いえ」
短い返事。
けれど、老人は安心したように肩の力を抜いた。
ミラは包帯を巻きながら、ふと思った。
この人は、剣がなくても騎士なのだ。
王都の騎士団に所属しているかどうかではない。
誰かを守るために、どこに立てばいいかを知っている。
誰かが怖がらないように、どう声をかければいいかを知っている。
それは、簡単に失われるものではなかった。
「ミラ」
エリオットの声で、ミラは我に返った。
「はい」
「包帯」
「あ、ありがとうございます」
差し出された包帯を受け取る。
彼は左手だけで、必要なものを渡してくれたらしい。
「右腕は使っていませんよね」
「使っていない」
「痛みは?」
「二」
「熱は?」
「少し」
「後で診ますね」
「ああ」
老人が二人を見て、にやりと笑った。
「治療師さんにしっかり管理されてるんだな」
エリオットは無言になった。
ミラは真面目に頷く。
「はい。継続観察中です」
「そうかそうか。いいことだ」
老人は楽しげに笑った。
エリオットは少しだけ顔を背けた。
診療が一段落する頃には、外はすっかり暗くなっていた。
村長の妻が持ってきてくれた夕食を、二人は空き家の手前の部屋で取ることになった。
豆と野菜の煮込み。硬めのパン。ゆで卵。干し肉を少し入れたスープ。
質素だが、温かい食事だった。
ミラは食事をしながら、明日以降の予定を確認した。
「この村には、基本五日滞在します。患者さんの状態次第で、最大七日です」
「五日」
「はい。その間に村の診療を進めつつ、エリオットさんの腕が旅に耐えられるかも確認します」
「ここで長く留まらない方がいいんだな」
「兄の手紙を見る限り、そうした方がいいと思います」
エリオットは静かに頷いた。
「王都の家族には、ここからは書かない方がいいか」
「前の村から手紙を出しています。まだ届いていない可能性もありますし、続けて出すと行き先の痕跡が増えます」
「そうだな」
少し寂しそうな声だった。
ミラはスプーンを置く。
「出立前に、短い無事報告を出すかどうか考えましょう。今すぐでなくてもいいと思います」
「ああ」
「ライヘル兄さんにも、今は詳しい返事は書かないつもりです。治療記録はまとめていますが、安全な便があるか分かりません」
「君の兄は、こちらを心配しているだろうな」
「おそらく」
「父親も?」
「父は……たぶん兄さんほど細かくは言いません。でも、心配はすると思います」
ミラは少し笑った。
「父は魔道具の工房に関わる人なので、直接助けに来るというより、必要な道具を送ろうとするかもしれません」
「いい父親だ」
「はい」
ミラは素直に頷いた。
「私のことを、落ちこぼれ扱いしなかった人です」
エリオットの目が動いた。
けれど、すぐには何も言わなかった。
ミラは自分で口にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。
「すみません。変な話を」
「変ではない」
エリオットは低く言った。
「君が自分をそう呼ぶのは、あまり好きではない」
ミラは瞬きをした。
「落ちこぼれ、ですか?」
「ああ」
「でも、王都では実際に」
「王都の評価だろう」
エリオットの声は静かだった。
「俺は、君の治療で指が動くようになった。馬車で腕が痛めば、君はすぐ気づく。旅先で熱を出した子どもがいれば診る。足を痛めた老人には、痛まないよう包帯を巻く」
彼はミラを見た。
「それを落ちこぼれとは思えない」
ミラは言葉を失った。
胸の奥が、不意に熱くなる。
父が言ってくれた言葉とは違う。
兄が認めてくれた研究者としての目線とも違う。
エリオットは、ミラの治療を受けている患者として、そう言っている。
それが、なぜかとても重かった。
「……ありがとうございます」
ミラは小さく答えた。
エリオットは少しだけ視線を逸らした。
「事実を言っただけだ」
「そういうところ、騎士みたいですね」
「元騎士だ」
「今も、だと思います」
今度はエリオットが黙った。
ミラは自分が言った言葉に少し驚いた。
けれど、取り消す気にはならなかった。
「今日、患者さんを案内している時に思いました。エリオットさんは、どこに立てば相手が安心するか知っています。そういうのは、右腕が使えるかどうかとは別のものだと思います」
エリオットは、手元の杯を見ていた。
右手はまだ添えるだけ。
重さを支えるのは左手だ。
「剣は握れない」
「はい」
「守れなかったこともある」
「はい」
「それでも、騎士だと思うのか」
ミラは静かに頷いた。
「少なくとも、私はそう思いました」
エリオットは何も言わなかった。
だが、手首の護符がほんのわずかに温かく光った。




