診療所の夜 1
新しい逗留先の村で用意された空き家は、集会所の裏手にあった。
前の村で借りていた元薬師の家ほど薬棚や道具は揃っていないが、清潔に掃き清められている。小さなかまど、机、椅子、寝台が一つ。奥には布で仕切れる小部屋があり、手前の広い部屋は診療所として使えるようになっていた。
ミラはエリオットの右腕の診察を終えると、すぐに室内を見回した。
「ここを診療用にして、奥の小部屋を寝室にすればよさそうですね。かまども使えますし、水場も近いです」
彼女は完全に仕事の顔だった。
しかし、エリオットは自分の荷物を左手に持ち、考えるように立っていた。
「……ミラ」
「はい?」
「俺は別の家に泊めてもらった方がいい」
ミラは薬草の包みを机に置きながら、きょとんとした顔で振り返った。
「なぜですか?」
「なぜって……」
エリオットは少し言葉に詰まった。
彼女は本気で分かっていないらしい。
「君は若い女性だ。俺は男だ。同じ家に泊まるのは、よくない」
「部屋は分けますよ?」
「そういう問題ではない」
「ですが、夜間に右腕の熱が上がる可能性があります。痛みが強くなった時、別の家だと対応が遅れます」
「それは分かる。だが、村の人間に誤解される」
「診療所扱いにしてもらえば問題ないと思います」
「……君は本当に気にしないんだな」
「気にしていますよ。だから部屋を分けますし、村長さんにも説明します」
ミラは当然のように答えた。
「私は治療師です。あなたは継続観察が必要な患者さんです。夜間に異変が起きる可能性がある以上、近くにいる方が安全です」
あまりにも正論だった。
正論だったが、エリオットはすぐには頷けなかった。
騎士団にいた頃、女性への接し方は厳しく教えられた。相手が貴族令嬢であろうと、町娘であろうと、旅の女性であろうと、軽率な振る舞いは許されない。
ましてミラは、自分の恩人であり治療師だ。
彼女に妙な噂が立つようなことは、絶対に避けたかった。
「俺は、君の評判に傷がつくことを避けたい」
エリオットは低く言った。
ミラは少し驚いたように目を瞬いた。
「私の評判、ですか」
「ああ」
「……ありがとうございます」
彼女は少しだけ表情を和らげた。
「でも、旅治療師をしていると、患者さんの近くで夜を過ごすことは珍しくありません。怪我人の多い場所では、診療所の隣で仮眠を取ることもあります」
「それでも、だ」
「エリオットさんは真面目ですね」
「真面目というより、当然のことだ」
その時、入口から明るい声がした。
「あら、ずいぶん難しい顔をしてるねえ」
村長の妻だった。
丸い籠を抱え、扉のところに立っている。中にはパン、干し野菜、卵、それから清潔な布が入っていた。
「夕食用に少し持ってきたよ。あと、診療に使える布も」
「ありがとうございます。助かります」
ミラが受け取ろうとすると、村長の妻は二人の顔を見比べて、すぐに何かを察したようだった。
「もしかして、泊まる場所の話かい?」
エリオットはわずかに眉を寄せた。
「俺は別の家で構いません」
「駄目だね」
村長の妻はあっさり言った。
エリオットが目を見開く。
「駄目、ですか」
「駄目だよ。あんたは患者さんなんだろう? 右腕に何かあった時、治療師さんから離れていたら困るじゃないか」
「しかし」
「奥の小部屋をミラさん。手前の寝台をあんた。診療所として使う家だと村の者には言っておく。変な噂をする暇があるなら、明日の診療の順番を守れって言っておくよ」
力強い言葉だった。
ミラはほっとしたように頷く。
「ありがとうございます」
「いいんだよ。村で呼んだ治療師さんなんだから、村でちゃんと守るさ」
村長の妻はそう言って、エリオットを見た。
「あんたも、気遣いは立派だけどね。治すために来たんだろう?」
エリオットは言葉に詰まった。
それから、静かに頷いた。
「……はい」
「なら、治療師さんの言うことを聞くこと」
「それは、前の村からずっと言われています」
「いいことだね」
村長の妻は満足そうに笑った。




