馬をなだめる手 3
道端の木陰で、ミラはエリオットの右腕を確認した。
やはり少し熱が上がっている。
右腕そのものを使ったわけではないが、反射的に動かしかけたこと、馬をなだめる緊張、指示を出す時の集中で、腕の奥の魔力がざわついたのだろう。
護符に、薄く白花と剣の紋が浮かんでいた。
「痛みは三で間違いないですか」
「三。今は二に下がりかけている」
「熱は手首中心」
「ああ」
「息苦しさや眩暈は?」
「ない」
「右肩は?」
「少し張っている」
「使いかけたからです」
「……すまない」
エリオットが素直に謝ったので、ミラは少しだけ驚いた。
「責めているわけではありません。反射で動いたんですよね」
「ああ」
「でも、止められました」
ミラは布を湿らせながら言った。
「それは大事なことです」
「止めるのも記録になるのか」
「はい」
ミラは真剣に頷く。
「使いそうになった右腕を止められた。痛みを申告できた。熱を確認できた。全部、旅を続けるために必要な記録です」
エリオットはしばらくミラを見ていた。
やがて、少しだけ視線を落とす。
「俺は、まだ騎士には戻れない」
ミラは手を止めなかった。
「はい」
「剣は握れない。右腕も使えない。だが……」
彼は少しだけ、馬車の方を見た。
御者が栗毛を撫で、旅人たちが荷を積み直している。
「それでも、できることはあるんだな」
低い声だった。
ミラの胸が静かに震えた。
「あります」
彼女ははっきりと言った。
「今、エリオットさんがいなければ、馬が怪我をしていたかもしれません。馬車も、旅人も危なかったです」
「右腕を使わずにできた」
「はい」
「……そうか」
エリオットは右手を見下ろした。
まだ包帯に包まれ、自由には動かない手。
けれど、その手が使えなくても、彼は何もできないわけではなかった。
ミラは湿布を当て、包帯を整える。
「今日の記録に追加します」
「何を」
「馬を落ち着かせたこと」
「それは治療記録ではないだろう」
「心の回復に関わるので、治療記録です」
エリオットは少しだけ困ったような顔をした。
「君の治療記録は、範囲が広い」
「旅治療師なので」
「便利な言葉だ」
そう言いながら、エリオットはほんの少し笑った。
*
馬車は再び動き出した。
ぬかるみを抜ける時、栗毛は少し警戒したが、エリオットが荷台から低く声をかけると落ち着いた。
御者は何度も礼を言った。
「いや、本当に助かったよ。あんたがいてくれてよかった」
エリオットは少し居心地悪そうに頷いた。
「大したことはしていない」
「大したことだよ。俺一人じゃ慌てて、余計にこいつを怯えさせてた」
御者は栗毛の背を見ながら笑った。
「元騎士さんかどうかは知らないが、馬のことはよく分かってる」
エリオットは何も答えなかった。
ただ、その表情は先ほどより少しだけ明るかった。
ミラはそれを見て、胸の中でそっと思う。
この人は、やっぱり誰かを守る人だ。
剣がなくても。
右腕が使えなくても。
その目と声と判断は、誰かを危険から遠ざける。
それは、騎士だった頃の名残なのか。
それとも、守護騎士という血筋に繋がるものなのか。
ミラにはまだ分からない。
ただ、今はそのどちらでもよかった。
目の前にいるエリオット自身が、誰かを助けた。
その事実が大切だった。
夕方近く、二人は次の逗留先の村に着いた。
村の入口には、小さな木の札が立っている。
ミラが次に訪れる予定だった村だ。
宿場町よりもずっと静かで、エリオットの故郷より少しだけ大きい。道の脇には畑が広がり、中央には井戸と集会所らしき建物があった。
馬車が村に入ると、すぐに誰かが声を上げた。
「治療師さんが来たぞ!」
その声に、家々から人が顔を出す。
ミラは一瞬で背筋を伸ばした。
旅治療師の顔になる。
エリオットはそれを隣で見ていた。
疲れているはずだ。
馬車に揺られ、途中で馬の騒ぎもあった。
それでもミラは、村人たちが集まる気配を感じた瞬間、表情を切り替えた。
この人は本当に、どこへ行っても治療師なのだ。
今度は、そのことが寂しいだけではなかった。
少し、誇らしかった。
村長らしい中年の男が駆け寄ってきた。
「ミラ・コックスさんですね? お待ちしていました」
「遅れて申し訳ありません。途中で少し事情がありまして」
「いえ、来てくださっただけで助かります。熱を出している子どもと、足を痛めた老人がいます。あと、薬の相談も」
次々と用件が出てくる。
ミラはすぐに頷いた。
「まず、重い症状の方から診ます。ただ、同行者も治療中の患者です。先に宿と、彼の腕の確認をさせてください」
村長はそこで初めてエリオットを見た。
大柄な青年。
右腕の包帯。
手首の護符。
左手の杖。
「患者さんでしたか」
「はい」
ミラははっきり答えた。
「私が継続して診ています」
エリオットは少しだけ視線を逸らした。
だが、以前のように「俺は大丈夫だ」と遮ることはしなかった。
村長はすぐに頷いた。
「それなら、空いている家を用意します。元々、治療師さんに泊まってもらうために整えておいた場所がありますので」
「ありがとうございます」
ミラは礼を言い、エリオットを見た。
「まず腕を診ます」
「ああ」
「その後、私は子どもを診に行きます。エリオットさんは休んでいてください」
「手伝えることがあれば」
「あります」
即答だった。
エリオットが少し驚く。
ミラは続けた。
「ただし、腕に負担をかけない範囲です。患者さんの誘導や、座る場所の確保をお願いするかもしれません」
「……分かった」
彼の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
患者であるだけではない。
それは小さなことだったが、今のエリオットには大きな意味があった。
用意された空き家は、村の集会所の近くにあった。
前の村の薬師の家ほど道具は揃っていないが、寝泊まりには十分だ。小さなかまどと、机、椅子、簡易寝台がある。
ミラは荷物を置くと、すぐにエリオットの右腕を診た。
「痛みは?」
「二。馬の件の後より落ち着いている」
「熱は軽いですね。旅二日目としては悪くありません」
「上出来か?」
少し冗談めいた声だった。
ミラは帳面を開きながら答える。
「はい。上出来です」
エリオットは黙った。
だが、その横顔は穏やかだった。
ミラは記録を書き込む。
――旅二日目。馬車移動中、車輪が轍に取られる。馬が動揺。エリオットさん、右腕を使わず馬を鎮静。右腕痛み一時三、熱感軽度。処置後軽減。
――本人、できることを自覚し始めている様子。
――次の逗留先到着。旅継続可。
「また何か書いたな」
「重要なことです」
「俺の腕の状態以外が多くなっていないか」
「治療記録なので」
「便利な言葉だ」
二人は同時に少しだけ笑った。
その笑いは、まだ恋と呼ぶには遠い。
けれど、初めての旅の中で、確かに積み重なった信頼の音だった。
外から、子どもの咳き込む声が聞こえた。
ミラの表情が切り替わる。
エリオットはそれを見て、静かに立ち上がった。
「行くんだろう」
「はい」
「俺は?」
「まずは休んでください。少ししたら、患者さんを集会所へ案内するのを手伝ってもらいます」
「分かった」
エリオットは左手で杖を取る。
「ミラ」
「はい」
「俺にできることは、言ってくれ」
ミラは彼を見た。
旅に出る前の彼なら、そんなことは言わなかったかもしれない。
足手まといになると考え、自分から引いていたかもしれない。
でも今は違う。
できることを探している。
ミラは静かに微笑んだ。
「はい。お願いします」
エリオットは小さく頷いた。
外は夕暮れだった。
新しい村の空に、薄い金色の光が広がっている。
二人の旅は、まだ二日目。
剣はまだ握れない。
恋もまだ名を持たない。
けれど、ミラとエリオットはそれぞれの役割を少しずつ取り戻しながら、同じ道の上を歩き始めていた。




