馬をなだめる手 2
馬車は街道を南へ進んだ。
昨日より道は広く、人通りも多い。商人の荷馬車、旅の夫婦、巡回中らしい地方兵、羊を連れた少年。村から出たばかりの時とは違い、常に誰かの気配があった。
エリオットは時折、周囲へ視線を向けている。
警戒というより、癖なのだろう。
馬の耳。
車輪の音。
道の先にある小石やぬかるみ。
すれ違う人の動き。
彼はそれらを自然に見ていた。
ミラは隣で帳面を抱えながら、ふと尋ねる。
「騎士団では、馬に乗る訓練も多かったんですか?」
「ああ。遠征や討伐では馬が必要になる」
「エリオットさんは得意だったんですね」
「人よりは慣れていたと思う。村でも馬や荷馬車は身近だったから」
「なるほど」
「ただ、騎士団の馬は村の馬とは違う。音にも血の匂いにも慣らされている。気性も強い」
「怖くなかったんですか?」
「最初はな」
エリオットは少しだけ遠くを見る。
「だが、馬は人の緊張をよく拾う。こちらが怯えれば余計に乱れる。だから、先に自分を落ち着かせる必要があった」
ミラはその言葉を聞きながら、彼の右腕へ視線を落とした。
「それは、治療にも似ていますね」
「治療?」
「患者さんが不安な時に、治療師が慌てると、余計に不安にさせます。だから、まず自分を落ち着かせる必要があります」
「君はいつも落ち着いている」
「そう見えるだけです」
「そうなのか」
「はい。内心ではよく慌てています」
エリオットが少し意外そうにミラを見る。
「君が?」
「私も人間なので」
「そうか」
彼は何かを考えるように目を伏せた。
「慌てていても、手は震えない」
「患者さんに触れる時は、震えないようにします」
「それがすごい」
ミラは言葉に詰まった。
真っ直ぐ言われると、どう返せばいいのか分からない。
「……訓練です」
「それだけではないだろう」
「たぶん、経験もあります」
「それだけでもない」
エリオットは静かに言った。
「君は、痛みから逃げない」
馬車の音が、少しだけ遠く聞こえた。
ミラは帳面の端を指で押さえる。
「逃げたい時もあります」
「でも逃げない」
「目の前に患者さんがいたら、逃げている場合ではないので」
「そういうところだ」
「どういうところですか」
「……いや」
エリオットは視線を前へ戻した。
「何でもない」
ミラは少し首を傾げた。
最近、エリオットは時々こういう言い方をする。
何か言いかけて、やめる。
そしてミラには、その先が分からない。
分からないことは分からないままにしておくべきだ。
そう思うのに、少しだけ気になった。
昼近く、空が少し曇り始めた。
前日の雨が残っていたのか、街道の脇にはぬかるみが多い。御者は慎重に進んでいたが、細い道へ入ったところで、車輪が深い轍に取られた。
がくん、と馬車が傾く。
荷台の旅人たちが声を上げた。
栗毛の馬が驚き、前へ跳ねようとする。
「おい、待て!」
御者が手綱を引くが、栗毛は耳を伏せ、首を振った。馬車が傾いたまま馬が暴れれば、車体がさらに沈むか、馬の脚を痛める危険がある。
旅人の一人が慌てて荷台から降りようとした。
「動くな!」
鋭い声が飛んだ。
エリオットだった。
声量は大きくない。
だが、よく通った。
旅人たちは思わず動きを止める。
エリオットは左手で荷台の縁を掴み、慎重に降りた。
右腕は固定したままだ。
ミラもすぐに降りようとしたが、エリオットが短く言う。
「ミラは待て」
「でも」
「馬が跳ねる。後ろに立つな」
その声に、ミラは反射的に止まった。
エリオットは御者へ向かって言った。
「手綱を引きすぎるな。余計に怯える」
「だが、暴れたら」
「前へ出そうとしているだけだ。押さえ込むな。声を落とせ」
御者は半信半疑ながらも、手綱を少し緩めた。
栗毛は鼻を鳴らし、首を振っている。胸当てが突っ張り、もう一頭の鹿毛も落ち着かなくなっていた。
エリオットは栗毛の正面には立たず、少し斜め前からゆっくり近づいた。
「大丈夫だ」
低い声。
「脚は取られていない。怖いだけだ」
栗毛の耳がぴくりと動いた。
「そうだ。前に出なくていい。待て」
ミラは荷台のそばで息を詰めて見ていた。
エリオットの動きは、決して速くない。
右腕も使えない。
けれど、彼の立つ位置、声のかけ方、間の取り方には無駄がなかった。
栗毛がまた首を振る。
その瞬間、エリオットの右肩がわずかに動いた。
反射的に右手を出しかけたのだ。
ミラの胸がひやりとする。
だが、エリオットはすぐに止めた。
右腕を使わず、左手だけをゆっくり栗毛の首筋へ伸ばす。
「いい子だ。落ち着け」
栗毛の鼻息が荒い。
しかし、少しずつ首の動きが小さくなっていく。
エリオットは御者へ視線だけ向けた。
「後ろの荷を少し下ろす。車輪の周りに板か枝を噛ませる。馬に無理に引かせるな」
「分かった」
御者と旅人たちが動き始める。
今度は皆、エリオットの指示を待った。
ミラも荷物を下ろそうとしたが、エリオットがすぐに言う。
「重いものは持つな。治療道具を守れ」
「私は怪我人ではありません」
「治療師が怪我をしたら困る」
それは、いつか村人たちがミラに言った言葉とよく似ていた。
ミラは少しだけ目を見開き、それから頷いた。
「軽いものだけにします」
「ああ」
エリオットは栗毛のそばを離れず、低い声で話しかけ続けた。
馬車の荷を少し下ろし、近くに落ちていた太い枝を轍に噛ませる。御者がゆっくり手綱を引き、馬に無理のないよう声をかける。
車輪が泥の中でぎしりと鳴った。
一度、空回りする。
栗毛がまた怯えかけた。
「待て」
エリオットの声が落ちる。
「大丈夫だ。もう一度だ」
不思議なほど、その声には力があった。
次の瞬間、車輪が枝に乗り、ぬかるみから抜けた。
馬車が水平に戻る。
旅人たちから安堵の息が漏れた。
御者が大きく息を吐く。
「助かった……!」
エリオットは栗毛の首を左手で軽く撫でた。
「よくやった」
栗毛は鼻を鳴らしたが、先ほどのような怯えはもうない。
ミラはエリオットのそばへ駆け寄った。
「右腕は?」
「使っていない」
「使いかけました」
「止めた」
「痛みは?」
「……三」
「熱は?」
「少し」
「すぐ診ます」
エリオットは一瞬、何か言いかけた。
けれど、ミラの顔を見て諦めたように頷いた。
「分かった」




