表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
PR
35/189

馬をなだめる手 2

 馬車は街道を南へ進んだ。

 昨日より道は広く、人通りも多い。商人の荷馬車、旅の夫婦、巡回中らしい地方兵、羊を連れた少年。村から出たばかりの時とは違い、常に誰かの気配があった。

 エリオットは時折、周囲へ視線を向けている。

 警戒というより、癖なのだろう。

 馬の耳。

 車輪の音。

 道の先にある小石やぬかるみ。

 すれ違う人の動き。

 彼はそれらを自然に見ていた。

 ミラは隣で帳面を抱えながら、ふと尋ねる。

「騎士団では、馬に乗る訓練も多かったんですか?」

「ああ。遠征や討伐では馬が必要になる」

「エリオットさんは得意だったんですね」

「人よりは慣れていたと思う。村でも馬や荷馬車は身近だったから」

「なるほど」

「ただ、騎士団の馬は村の馬とは違う。音にも血の匂いにも慣らされている。気性も強い」

「怖くなかったんですか?」

「最初はな」

 エリオットは少しだけ遠くを見る。

「だが、馬は人の緊張をよく拾う。こちらが怯えれば余計に乱れる。だから、先に自分を落ち着かせる必要があった」

 ミラはその言葉を聞きながら、彼の右腕へ視線を落とした。

「それは、治療にも似ていますね」

「治療?」

「患者さんが不安な時に、治療師が慌てると、余計に不安にさせます。だから、まず自分を落ち着かせる必要があります」

「君はいつも落ち着いている」

「そう見えるだけです」

「そうなのか」

「はい。内心ではよく慌てています」

 エリオットが少し意外そうにミラを見る。

「君が?」

「私も人間なので」

「そうか」

 彼は何かを考えるように目を伏せた。

「慌てていても、手は震えない」

「患者さんに触れる時は、震えないようにします」

「それがすごい」

 ミラは言葉に詰まった。

 真っ直ぐ言われると、どう返せばいいのか分からない。

「……訓練です」

「それだけではないだろう」

「たぶん、経験もあります」

「それだけでもない」

 エリオットは静かに言った。

「君は、痛みから逃げない」

 馬車の音が、少しだけ遠く聞こえた。

 ミラは帳面の端を指で押さえる。

「逃げたい時もあります」

「でも逃げない」

「目の前に患者さんがいたら、逃げている場合ではないので」

「そういうところだ」

「どういうところですか」

「……いや」

 エリオットは視線を前へ戻した。

「何でもない」

 ミラは少し首を傾げた。

 最近、エリオットは時々こういう言い方をする。

 何か言いかけて、やめる。

 そしてミラには、その先が分からない。

 分からないことは分からないままにしておくべきだ。

 そう思うのに、少しだけ気になった。

 

 昼近く、空が少し曇り始めた。

 前日の雨が残っていたのか、街道の脇にはぬかるみが多い。御者は慎重に進んでいたが、細い道へ入ったところで、車輪が深い轍に取られた。

 がくん、と馬車が傾く。

 荷台の旅人たちが声を上げた。

 栗毛の馬が驚き、前へ跳ねようとする。

「おい、待て!」

 御者が手綱を引くが、栗毛は耳を伏せ、首を振った。馬車が傾いたまま馬が暴れれば、車体がさらに沈むか、馬の脚を痛める危険がある。

 旅人の一人が慌てて荷台から降りようとした。

「動くな!」

 鋭い声が飛んだ。

 エリオットだった。

 声量は大きくない。

 だが、よく通った。

 旅人たちは思わず動きを止める。

 エリオットは左手で荷台の縁を掴み、慎重に降りた。

 右腕は固定したままだ。

 ミラもすぐに降りようとしたが、エリオットが短く言う。

「ミラは待て」

「でも」

「馬が跳ねる。後ろに立つな」

 その声に、ミラは反射的に止まった。

 エリオットは御者へ向かって言った。

「手綱を引きすぎるな。余計に怯える」

「だが、暴れたら」

「前へ出そうとしているだけだ。押さえ込むな。声を落とせ」

 御者は半信半疑ながらも、手綱を少し緩めた。

 栗毛は鼻を鳴らし、首を振っている。胸当てが突っ張り、もう一頭の鹿毛も落ち着かなくなっていた。

 エリオットは栗毛の正面には立たず、少し斜め前からゆっくり近づいた。

「大丈夫だ」

 低い声。

「脚は取られていない。怖いだけだ」

 栗毛の耳がぴくりと動いた。

「そうだ。前に出なくていい。待て」

 ミラは荷台のそばで息を詰めて見ていた。

 エリオットの動きは、決して速くない。

 右腕も使えない。

 けれど、彼の立つ位置、声のかけ方、間の取り方には無駄がなかった。

 栗毛がまた首を振る。

 その瞬間、エリオットの右肩がわずかに動いた。

 反射的に右手を出しかけたのだ。

 ミラの胸がひやりとする。

 だが、エリオットはすぐに止めた。

 右腕を使わず、左手だけをゆっくり栗毛の首筋へ伸ばす。

「いい子だ。落ち着け」

 栗毛の鼻息が荒い。

 しかし、少しずつ首の動きが小さくなっていく。

 エリオットは御者へ視線だけ向けた。

「後ろの荷を少し下ろす。車輪の周りに板か枝を噛ませる。馬に無理に引かせるな」

「分かった」

 御者と旅人たちが動き始める。

 今度は皆、エリオットの指示を待った。

 ミラも荷物を下ろそうとしたが、エリオットがすぐに言う。

「重いものは持つな。治療道具を守れ」

「私は怪我人ではありません」

「治療師が怪我をしたら困る」

 それは、いつか村人たちがミラに言った言葉とよく似ていた。

 ミラは少しだけ目を見開き、それから頷いた。

「軽いものだけにします」

「ああ」

 エリオットは栗毛のそばを離れず、低い声で話しかけ続けた。

 馬車の荷を少し下ろし、近くに落ちていた太い枝を轍に噛ませる。御者がゆっくり手綱を引き、馬に無理のないよう声をかける。

 車輪が泥の中でぎしりと鳴った。

 一度、空回りする。

 栗毛がまた怯えかけた。

「待て」

 エリオットの声が落ちる。

「大丈夫だ。もう一度だ」

 不思議なほど、その声には力があった。

 次の瞬間、車輪が枝に乗り、ぬかるみから抜けた。

 馬車が水平に戻る。

 旅人たちから安堵の息が漏れた。

 御者が大きく息を吐く。

「助かった……!」

 エリオットは栗毛の首を左手で軽く撫でた。

「よくやった」

 栗毛は鼻を鳴らしたが、先ほどのような怯えはもうない。

 ミラはエリオットのそばへ駆け寄った。

「右腕は?」

「使っていない」

「使いかけました」

「止めた」

「痛みは?」

「……三」

「熱は?」

「少し」

「すぐ診ます」

 エリオットは一瞬、何か言いかけた。

 けれど、ミラの顔を見て諦めたように頷いた。

「分かった」

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ