馬をなだめる手 1
宿場町の朝は、村の朝より少し騒がしかった。
まだ日が高くなる前だというのに、宿の下では馬の蹄の音がし、荷車の車輪が石畳を軋ませ、旅人たちの声が行き交っている。食堂からは焼いたパンと豆のスープの匂いが漂い、女将が誰かに大声で指示を出していた。
ミラは、エリオットの部屋の扉を叩いた。
「エリオットさん、起きていますか」
「ああ」
返事はすぐにあった。
中へ入ると、エリオットはすでに椅子に座り、右腕を机の上に置いていた。包帯も自分で外しやすいように緩めてある。
ミラはその光景を見て、少しだけ目を丸くした。
「準備が早いですね」
「君が来てから慌てるよりいい」
「とても良い判断です」
「褒めなくていい」
「褒めます。治療に協力的な患者さんは貴重なので」
エリオットは少しだけ眉を寄せたが、もう言い返さなかった。
ミラは右腕に触れる。
昨日の馬車移動の疲れが残っているのか、手首から肘の手前にかけて、ほんのりと熱があった。ただ、昨夜より悪化しているわけではない。
「痛みは?」
「二。指先は少し痺れている」
「熱は昨日の夜より少し残っている感じですね」
「今日の移動は無理か」
声には、わずかな緊張が混じっていた。
ミラは首を横に振る。
「無理ではありません。ただし、馬車移動中の固定を少し変えます。昨日より腕が揺れないようにします」
「歩行は?」
「坂道や悪路では降りる可能性があります。でも、距離は私が決めます」
「分かっている」
「本当に分かっていますか?」
「分かっている。昨日の樫の木で止まっただろう」
少しだけ得意げに聞こえた。
ミラは思わず笑いそうになりながら、帳面に記録を書き込む。
――旅二日目朝。右腕熱感軽度残存。痛み二。痺れ軽度。移動可。ただし固定強化。
「本当に些細なことも記録するんだな」
「大事なことですから」
「……そうか」
エリオットはどこか複雑そうに視線を逸らした。
けれど、その横顔は少しだけ穏やかだった。
朝食を済ませると、二人は宿場町を出る乗合馬車に乗ることになった。
昨日のハンスの荷馬車はこの宿場町までで、ここから先は別の馬車になる。次の逗留先の村へ向かうには、昼過ぎまで街道を進み、途中の分かれ道で降りて、そこから村道を少し歩く必要があった。
馬車は二頭立てだった。
一頭は年を取った穏やかな鹿毛。もう一頭は、少し若い栗毛の馬だ。栗毛の方は鼻先を落ち着きなく動かし、前脚で地面を軽く掻いている。
エリオットは馬車に乗る前に、その栗毛を見た。
「若いな」
御者の男が振り返る。
「分かるのかい?」
「少し」
「こいつはまだ街道に慣れきってなくてな。力はあるんだが、物音に驚く」
エリオットは栗毛の首筋と、馬具の締め具を見た。
「胸当てが少し上がっている」
「え?」
「坂道で息が詰まるかもしれない。少し下げた方がいい」
御者は驚いたように目を瞬いた。
「その立ち姿、騎士か何かだったのか?」
その言葉に、空気が一瞬だけ止まる。
ミラはエリオットの横顔を見た。
彼は少しだけ目を伏せたが、声は乱れなかった。
「昔、馬に乗っていた」
「そうか。なら見てもらえるか?」
御者はあまり深く聞かなかった。
エリオットは左手で馬具に触れ、栗毛を驚かせないよう、低い声で話しかけた。
「少し触るぞ」
栗毛の耳がぴくりと動く。
エリオットの声は、ミラが聞いたことのない種類の穏やかさを帯びていた。人に向ける時よりも、さらに低く、ゆっくりとしている。
栗毛は最初こそ鼻を鳴らしたが、エリオットが首筋を軽く撫でると、少しずつ落ち着いた。
右腕は使っていない。
左手だけで、無理のない範囲で馬具の位置を確認し、御者へ指示を出す。
「ここを緩めて、少し下げる。そうだ。きつく締めすぎない。坂で胸が詰まる」
「おお、助かるよ」
ミラはその姿を静かに見ていた。
エリオットは剣を握れない。
右腕もまだ不安定だ。
けれど、彼の中には、騎士だった頃に身につけたものが確かに残っている。
馬の扱い。
周囲を見る目。
危険を減らす判断。
彼は、何もできない人ではない。
そのことを、きっとエリオット自身もまだ少しずつ思い出している途中なのだ。
「ミラ」
呼ばれて、ミラははっとした。
「はい」
「乗るぞ」
「あ、はい」
エリオットは荷台へ乗る前に、当然のように左手を差し出しかけた。
そして、一瞬止まる。
ミラはそれに気づいた。
「ありがとうございます。自分で乗れます」
「……そうか」
「でも、荷物を支えてもらえますか? 左手で」
エリオットは少しだけ目を見開いた。
それから、頷く。
「ああ」
彼はミラの鞄を左手で支えた。
右腕は使わない。
ミラが馬車へ上がる間、鞄が揺れないようにしてくれる。
それは小さな手助けだった。
けれど、エリオットの表情がほんの少し柔らかくなったのを、ミラは見逃さなかった。




