宿場町の夜 4
夕食は、温かな豆のスープと焼きたてのパン、炙った肉、蒸し野菜だった。
ミラとエリオットは食堂の隅の席に座った。
宿場町の食堂は賑やかだった。
商人、旅人、馬車の御者、近くの畑から来たらしい男たち。話し声と食器の音が混ざり合っている。
エリオットは最初、周囲の視線を少し気にしているようだった。
右腕の包帯。
大柄な体。
元騎士らしい姿勢。
目立たない方が難しい。
ミラはそれに気づき、自然に言った。
「スープ、熱いので左手だけだと少し危ないかもしれません。器をこちらへ寄せますね」
「そこまでしなくていい」
「治療師としての安全管理です」
「またそれか」
言いながらも、エリオットの緊張が少しだけ緩んだ。
誰かに見られているかもしれない場で、彼の不自由を隠すのではなく、当然のように扱う。
ミラはそうしているだけだった。
けれど、エリオットにはそれがありがたかった。
同情ではない。
腫れ物扱いでもない。
ただ、今の状態に合わせた動き。
それが彼を救った。
食事の途中、宿の女将が追加のパンを持ってきた。
「治療師さん、これはおまけだよ。うちの亭主の手を診てくれた礼」
「ありがとうございます。でも、こんなに」
「食べられなかったら明日の朝に持っていきな」
「助かります」
女将が去った後、エリオットがパンを見て言った。
「どこへ行っても食べ物が増えるな」
「私も不思議です」
「君がすぐ診るからだ」
「困っている人がいたら、診ます」
「知っている」
エリオットはスープを見つめた。
「君は、どこへ行っても治療師なんだな」
ミラは少し驚いた。
「それは、そうです。旅治療師なので」
「そうだな」
エリオットは静かに頷いた。
言葉だけ聞けば、ただの確認だった。
けれど、その横顔には少しだけ寂しさに似たものがあった。
ミラはそれに気づきかけたが、うまく意味を掴めなかった。
「エリオットさん?」
「何でもない」
「腕が痛みますか」
「違う」
「では、疲れましたか」
「それも少しはある」
「食べたら部屋へ戻りましょう」
「ああ」
エリオットは素直に答えた。
その素直さが、かえってミラを少し心配にさせた。
夜、ミラはエリオットの部屋を訪ねた。
約束通り、就寝前の診察である。
エリオットは椅子に座り、右腕を机の上に置いていた。
自分から診せる準備をしていたらしい。
「素晴らしいですね」
「褒めるな」
「習慣になってきました」
「君に何度も言われる前に済ませた方が早い」
「良い判断です」
ミラは包帯を外し、右腕を確認した。
昼間より熱は落ち着いている。
痛みは二。
痺れも強くはなっていない。
「今日の旅には耐えられています」
「そうか」
「ただ、馬車の揺れと坂道で熱が出ました。明日は今日より距離が長くなる可能性があります。途中で必ず休憩を入れます」
「ああ」
「あと、宿場町で緊張した時にも護符が反応しました。身体だけでなく、気持ちの負担も腕に出るかもしれません」
エリオットは少し黙った。
「それも記録するのか」
「はい」
「情けないな」
「情けなくありません」
ミラは即答した。
エリオットが彼女を見る。
「心と身体は繋がっています。緊張で痛みが増すことは珍しくありません。だから記録します。責めるためではなく、対策するために」
「対策」
「はい。人の多い場所では早めに休む。腕を固定する。必要なら静かな席を選ぶ。そうすれば、痛みを悪化させずに移動できます」
エリオットはミラの言葉を聞いていた。
やがて、少しだけ目を伏せる。
「君は、俺ができないことを数えるために記録しているわけじゃないんだな」
ミラは手を止めた。
「当然です」
彼女は静かに言った。
「できることを増やすために記録しています」
エリオットは何も言わなかった。
けれど、その沈黙は重くなかった。
ミラは包帯を巻き直し、最後に手首の護符を確認する。
白花と剣の紋は、今日は薄い。
静かな光だった。
「明日も朝に診ます」
「ああ」
「夜中に痛みが強くなったら呼んでください」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「では、おやすみなさい」
ミラが立ち上がろうとすると、エリオットがふいに言った。
「ミラ」
「はい」
「今日、宿の主人を診ていた時」
「はい」
「君は、本当に迷わないんだな」
「迷いますよ」
「そうか?」
「診るべきか、休むべきかは迷います。私一人でできることには限界がありますから」
ミラは少しだけ笑った。
「でも、目の前で痛そうにしている人を見ると、やっぱり診てしまいます」
「それで、疲れないのか」
「疲れます」
「正直だな」
「嘘をついても疲れは取れません」
エリオットは少しだけ笑った。
「君らしい」
「そうでしょうか」
「ああ」
その声があまりに穏やかで、ミラは少し落ち着かなくなった。
「でも、今日はこれ以上診ません。ちゃんと休みます」
「それならいい」
「エリオットさんも休んでください」
「ああ」
ミラは部屋を出ようとして、扉の前で振り返った。
「明日は、今日より長い一日になります」
「分かっている」
「でも、今日をちゃんと越えられました」
エリオットが顔を上げる。
ミラは言った。
「旅の一日目としては、上出来です」
エリオットはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「そうか」
「はい」
「なら、明日も上出来にする」
「無理をしない範囲で」
「……ああ」
その返事を聞いて、ミラはようやく部屋を出た。
自分の部屋へ戻ったミラは、机の上で帳面を開いた。
宿場町の夜は、村より少し賑やかだ。
階下からは食器を片づける音や、旅人たちの話し声がかすかに聞こえる。
ミラは今日の記録をまとめた。
――旅一日目。
――荷馬車移動により右腕痛み二〜三。坂道歩行で一時三。宿場町到着後、熱感軽度。
――本人、痛みと熱を自発的に申告。
――人の多い場所で緊張あり。護符微弱反応。
――夜の診察時、熱感軽減。痛み二。
――旅継続可。ただし明日は休憩回数を増やすこと。
そこまで書いて、ミラは筆を止めた。
別の一文を、少し迷ってから加える。
――エリオットさんは、できないことを責めるためではなく、できることを増やすための記録だと理解し始めている。
書いた後、ミラはその文字を見つめた。
それは右腕の記録ではない。
けれど、確かに治療の記録だった。
窓の外を見ると、宿場町の灯りがいくつか揺れている。
村とは違う夜。
旅の夜。
ミラは胸元の白花のペンダントに触れた。
「一日目、無事に終わりました」
誰に報告したのか、自分でも分からなかった。
母にか。
父にか。
兄にか。
それとも、この旅を見守っているかもしれない女神にか。
ペンダントは静かに温かかった。
隣の部屋で、床板がかすかに鳴る。
エリオットが椅子から立ったのかもしれない。
ミラはしばらく耳を澄ませたが、それ以上の物音はなかった。
彼も、休もうとしている。
そのことに少し安心して、ミラは帳面を閉じた。
明日は次の村へ向かう。
まだ王都は遠い。
けれど、確実に一歩進んだ。
ミラは灯りを消し、旅の一日目を静かに終えた。




