気味の悪い恩恵 2
呆れと怒りが、胸の奥で煮え立つ。
「本当に……」
言葉がこぼれる。
「本当に、貴様は二年前の物証をあちこちに撒いているのだな」
「撒いたのではありません。利用したのです」
「同じだ」
「違います」
「私にとっては同じだ!」
侯爵の声が、執務室に響いた。
香炉の煙が細く乱れる。
セヴランは、それでも静かだった。
「閣下。リンドルの記録が王都へ入れば、二年前の押収品記録と照合されます」
「……」
「黒塗り木箱。消えた移送記録。騎士団の補助欄。治療院の封印記録。すでに王都では、いくつかの線が動き始めている」
「脅す気か」
「確認ですよ」
また、その言葉だった。
侯爵は、吐き気に近い苛立ちを覚えた。
セヴランは続ける。
「リンドルの三組合を潰す必要はありません。むしろ、潰せば目立つ。止めるのではなく、遅らせればいい」
「どうやって」
「地方役所を使います」
侯爵は冷たい目でセヴランを見た。
「……やはり、それが目的か」
「民間組合による独自調査は危険。危険物の採取・封印・移送は官吏立会いのもと行うこと。王都への検査物送付は地方役所の確認印を経ること。流通荷の差し止めは、商業混乱を避け、役所判断を待つこと」
セヴランは、あらかじめ用意していたかのように言った。
「この程度の通達で十分です」
「王都へ届く道を、役所で止める気か」
「止めるのではありません。遅らせるのです」
「同じことだ」
「遅れれば、こちらが先に動けます」
侯爵はしばらくセヴランを見ていた。
この男は、言葉の表面だけを整える。
止めるのではない。遅らせる。
隠すのではない。管理する。
人体実験ではない。観測する。
証拠隠滅ではない。回収する。
いつもそうだ。
汚れたものに、冷たい名をつける。
「リンドルの魔道具屋に直接触れるな」
侯爵は低く言った。
セヴランの目がわずかに動く。
「なぜです」
「そこを気にしていると悟られる。魔道具屋に直接官吏を入れれば、かえって地下に何かあるとこちらが知っていると教えるようなものだ」
「なるほど」
「侯爵家の名は使わない。セーヴァルトの商会印も使わせない。地方役所の通常通達として処理する」
「承知しました」
「私の印も残すな」
「もちろんです」
侯爵は机の上の報告書を一枚、側近用の呼び鈴のそばへ滑らせた。
「これは最後だ、ノックス」
セヴランは、何も言わない。
「これ以上、私を貴様の実験場の後始末に使うな」
「承知しました」
返事は丁寧だった。
だが、侯爵は知っていた。
この男は、最後だなどと思っていない。
必要になれば、また来る。
また、こちらの首に糸を掛けてから頼み事をする。
「出ていけ」
侯爵は言った。
セヴランは静かに礼をし、執務室を出ていった。
扉が閉まったあと、侯爵はしばらく動かなかった。
夏の雨が、窓を叩いている。
あの男を利用しているのは自分たちのはずだった。
少なくとも、かつてはそう思っていた。
政治側は庇護と資金を与える。
騎士団癒着派は実働を担う。
治療院は症例と記録を閉じる。
禁術派は術式を出す。
互いに利用し、互いに弱みを握る。
それで釣り合っていた。
だが、セヴラン・ノックスは釣り合いを崩した。
天才。
禁術派の金字塔。
そう呼ばれている男は、侯爵にとってただの便利な道具ではなくなりつつある。
制御できない刃。
しかも、その刃は自分が切られることを恐れていない。
侯爵は呼び鈴を鳴らした。
側近が入ってくる。
「閣下」
「地方役所へ通達を出す」
「リンドル方面でしょうか」
侯爵の目が細くなる。
「なぜ分かる」
側近は一瞬、言葉に詰まった。
「……先ほど、関連商会筋から、リンドルで三組合が動き始めたとの報告が」
「そうか」
侯爵は短く言った。
「通達内容はこうだ。グレイル村旧坑道周辺に瘴気性危険物の疑いあり。民間組合による独自調査は危険のため、一時停止。危険物の採取、封印、移送は官吏立会いのもと行うこと。王都への検査物送付は、地方役所の確認印を経ること。流通荷の差し止めは、商業混乱を避け、役所判断を待つこと」
「承知しました」
「ただし」
侯爵の声がさらに低くなる。
「侯爵家の名は使うな。セーヴァルトの印も残すな。地方役所の通常通達として処理しろ」
「はい」
「リンドル魔道具屋に直接触れるな。あくまで三組合とグレイル村調査の動きを止める」
「承知しました」
「それから」
侯爵は一拍置いた。
「ノックスの名も残すな」
側近は、深く頭を下げた。
リンドルでは、三組合合同の実務会合が始まろうとしていた。
共同集会所には、薬草問屋、運送商会、倉庫持ち、水質検査に関わる職人、魔道具素材の商人たちが集められている。
議題は、グレイル村周辺の薬草・水・土の異常反応調査。
旧坑道付近の採取品と流通荷の一時検査。
三組合合同の調査隊編成。
核の名はない。
黒系術式の名もない。
リンドル魔道具屋地下の話もない。
オリヴァー・コックスは、集会所の前方に立ち、参加者の顔を確認していた。ロアンは隣で出席名簿と外向き議事録を抱えている。
魔道具師組合長が口を開きかけた、その時。
集会所の扉が叩かれた。
控えていた職人が扉を開けると、そこには地方役所の使者が立っていた。
灰色の外套。
濡れた革鞄。
手には封筒。
使者は室内を見回し、よく通る声で告げた。
「リンドル地方役所より通達です」
集会所がざわつく。
オリヴァーは、わずかに目を細めた。
役所からの圧力。
早い。
早すぎる。
使者は封筒を掲げた。
「グレイル村旧坑道周辺における危険物調査について。民間組合による独自調査および検体送付は、一時停止していただきます」
薬草師組合長の顔が硬くなる。
魔術組合長は、通達の封蝋を見つめていた。
魔道具屋の店主は、低く呟く。
「来たか」
ロアンは何も言わず、筆を構えた。
オリヴァーは静かに息を吸う。
前線とは違う。
ここで振るうのは剣でも白花でもない。
記録と手順と、言葉だった。
リンドルの後方戦線は、公的な圧力を前に、次の局面へ入った。




