気味の悪い恩恵 1
オリヴァーたちがリンドルに戻り三組合の協議の準備進めていた頃、王都は夏の湿気に沈んでいた。
セーヴァルト侯爵邸の奥にある執務室では、厚い帳が半ば下ろされている。香炉の煙は、雨気を含んだ空気の中で白く細く曲がり、燭台の火は時折、風もないのに揺れた。
ベルトラン・セーヴァルト侯爵は、机の上に積まれた報告書を睨んでいた。
カーヴェルの商会通達。
ザイルへの指示経路。
第六特務小隊の移動痕を消すための処理。
南方商会筋への追加通達。
そして、ガレス・オルブライトへ送る短い警告文。
――第六の痕跡を残すな。
それだけで、十分だった。
ガレスなら意味は分かる。
分からなければ、そもそも副団長の座にいる資格などない。
侯爵は筆を置き、眉間を押さえた。
カーヴェルの件だけでも厄介だった。
地方の村を一つ管理するだけなら、難しくはない。商会に通達を出し、外部者を遠ざけ、異常は季節病か水質不良として処理する。それで済むはずだった。
だが、治療師ミラ・コックスは坑下村へ入った。
水場を調べた。
通達の写しを取られた可能性がある。
そして、封じたはずのエリオット・バーンスタンの右腕は反応を示し始めている。
そこへ、また別の報告が届いた。
リンドル、グレイル村。
そこでセヴラン・ノックスが動いているらしい。
リンドルは侯爵にとっては、ほとんど関係のない地方の町だった。
グレイル村も同じだ。
そんな名を、彼は本来なら覚えている必要すらなかった。
それなのに。
「閣下」
側近が静かに入ってきた。
「ノックス卿が参りました」
侯爵の口元が、わずかに歪む。
「通せ」
セヴランは、相変わらず静かに部屋へ入ってきた。
黒い外套。整った髪。湿った夏の空気の中でも、彼だけが不自然なほど乾いて見える。
侯爵は椅子から立たなかった。
「カーヴェルの後始末だけでも十分厄介だというのに、今度は何だ」
「リンドルとその先のグレイル村です」
セヴランは一切ためらわずに言った。
侯爵は、低く笑った。
笑いではなかった。
「リンドルだと」
「はい」
「カーヴェルの次はリンドルか。私はそのような地方の町には興味がない」
「関心を持たざるを得ない状況です」
「貴様の実験だろう」
侯爵の声が冷えた。
「カーヴェルでは二年前の物証を勝手に動かし、地方の村を実験場にした。今度もお前の尻拭いに私の役所筋を使えと言いに来たのか」
セヴランは、少しだけ首を傾けた。
「尻拭いではありません。対応です」
「同じことだ」
侯爵は机を叩いた。
燭台の火が揺れ、壁に映る影が歪む。
「カーヴェルでは、貴様が動かした核のせいで商会通達が見られかけた。第六まで動かす羽目になった。今度はリンドル? グレイル村? いい加減にしろ、ノックス」
セヴランは動じない。
その平坦さが、侯爵の神経をさらに逆撫でした。
「説明しろ。なぜリンドルにまで貴様が関わっている」
「二年前の素材の一部を再利用しました」
あまりに淡々とした答えだった。
侯爵は一瞬、言葉を失った。
「……再利用?」
「ええ。二年前に用いた核群のうち、まだ反応を保持していたものがあります。廃棄するには惜しい。地方条件下での観測に向いていました。その素材を使ってグレイル村で観測をしていたのですが、どうもそれにリンドルが動き始めているようで」
「素材などと呼ぶな」
侯爵は低く吐き捨てた。
「あれは二年前の物証だ」
「物証にもなり得ますね。だから回収したいのです」
「貴様は……」
侯爵は椅子から立ち上がった。
「カーヴェルでも、グレイル村でも、二年前の事件に繋がるものを動かしていたのか」
「正確には、すべてが同じものではありません。核、触媒、外殻、調整媒体。それぞれ用途は異なります」
「私が聞いているのは術式分類ではない」
侯爵の声が荒くなる。
「貴様は、自分で処理できもしない実験を増やしているだけではないか」
「処理できます」
「できていないから、私の前に来ているのだろう」
部屋の中に、夏の湿気とは違う重さが満ちた。
侯爵はセヴランを睨む。
「貴様お得意の記憶操作でも、黒い術式でも、好きに使えばよかろう。なぜまた私が役人を動かさねばならん」
「記憶阻害は、個人には有効です」
セヴランは静かに答えた。
「ですが、リンドルでは三つの組合が動き始めています。魔道具師組合、魔術組合、薬草師組合。人が増え、記録が増え、便が分かれる。個人の記憶を曲げるだけでは足りません」
「では最初から、そのような状況にするな」
「観測には、予期せぬ展開も含まれます」
「実験狂いが」
侯爵は、吐き捨てるように言った。
セヴランは、わずかに目を細めた。
「そうおっしゃいますが、閣下もその“実験”の恩恵を受けてこられたではないですか」
侯爵の顔から表情が消えた。
「何?」
「二年前の騎士を王都から退かせた時。治療不能記録を閉じた時。邪魔な者の認識を鈍らせた時。記録の道を曲げた時」
セヴランの声は穏やかだった。
「いつも閣下は、私どもの成果を有効に使ってくださった」
「黙れ」
「研究者は、得られた結果を次へ進めるものです」
「黙れと言った」
「閣下が政治を進めるように、私は研究を進める。それだけです」
侯爵は机の端を掴んだ。
この男を、今すぐ追い出したい。
だが、それができない。
それが余計に腹立たしかった。
セヴランは便利だった。
禁術派は便利だった。
公にはできない記憶の処理。
都合の悪い症例記録の封鎖。
騎士団内の異常な実働部隊への調整。
二年前の事故を、事故として閉じるための技術。
侯爵はそれを使ってきた。
だが、使ってきたことと、尊重していることは違う。
禁術派など、彼にとっては気味の悪い裏道具だった。
政治の表に出してはならない、汚れた刃。
その刃が、いま自分の手元を離れ、勝手に動き始めている。
「ノックス」
侯爵は低く言った。
「私は、貴様の研究室を維持するために政治をしているのではない」
「もちろん存じております」
「ならば、これ以上私を巻き込むな」
「リンドルで調査された記録が王都へ届けば、閣下も巻き込まれます」
セヴランは淡々と返した。
侯爵は黙った。
「リンドルの三組合は、グレイル村を正式調査するつもりです。水、土、薬草、住民症状。そして、リンドルの地下に封じられている核の反応写しを王都へ送る可能性がある」
「リンドルの地下に、核があるのか」
「ええ。移送中に外れたものを、ミラ・コックスたちが拾いました。今はリンドルの魔道具屋に封じられている」
侯爵は、目を閉じた。




