要塞になった魔道具屋 1
扉の内側に張られた反応糸が、もう一度かすかに揺れた。
ロアンは反射的に立ち上がりかけた。
「師匠、追いますか」
「追わない」
オリヴァーの返答は、ほとんど間を置かなかった。
その声は静かだったが、迷いはない。
「相手の目的が、こちらを店から引き離すことなら、追う方が危ない。今ここで守るべきものは屋根の上の影じゃない」
リンドル魔道具屋の店主も頷いた。
「地下だな」
「ああ」
オリヴァーは、扉の反応糸を見つめた。
揺れはもう止まっている。屋根伝いに近づいた何者かは、気配だけを残して離れたらしい。
顔は見えない。
足音も聞こえない。
ただ、こちらの防ぎを確かめるように、反応糸へ触れた。
密偵としては粗い。
だが、魔道具屋の封印線に触れて反応を見る程度の知識はある。
「ロアン、記録」
「はい」
ロアンは慌てて筆を取った。
「時刻、内々の会合終了直後。奥部屋扉内側の反応糸に微弱振動。方向、隣家屋根側。侵入なし。反応は短時間」
「ダリオを呼んで、屋根と裏通りの痕跡を拾わせてくれ。追跡はなし。触れた場所の灰白反応だけ採る」
「はい、師匠」
ロアンが部屋を出ると、店主は深く息を吐いた。
「まったく、うちは一介の魔道具屋にすぎないはずだったんだがな」
店主は奥部屋の壁を見渡した。
扉には反応糸。窓には干渉避けの細い銀線。地下へ続く床板の下には、昨夜刻んだばかりの封印環。さらに、魔術組合が置いていった小型の警戒灯が棚の上で淡く光っている。
「いつから要塞になったんだ、ここは。これじゃまともに商売もできん」
ぼやきは冗談めかしていたが、疲労は本物だった。
オリヴァーは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「古い魔道具屋のよしみで、しばらく辛抱してください」
「よしみで店を要塞にされてたまるか」
「今度、うちの工房のとっておきを一つ送ります」
店主は片眉を上げた。
「一つで足りると思うなよ」
「では二つ」
「三つだ」
「……検討します」
「検討ではなく確約しろ」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
けれど、オリヴァーの目は笑いきっていなかった。
冗談を言えるうちは、まだ大丈夫だ。
だが、冗談で済む段階ではない。
地下には核がある。
誰かが、それを探っている。
ダリオが戻ってきたのは、半刻ほど後だった。
雨上がりの屋根瓦には、はっきりした足跡は残っていなかった。だが、隣家の軒先に張られた古い雨避け布に、黒い紙片の灰のようなものが付いていた。
「追えなかった」
ダリオは、布に包んだ灰を机へ置いた。
「屋根から裏通りへ降りた痕はありましたが、その先は人通りに紛れています。足の運びは軽い。けど、本職の盗人って感じじゃありません」
「どう違う」
店主が聞く。
「逃げ方が荒いです。屋根板を一枚鳴らしてる。普通の盗人ならやらない」
ロアンが白石針を灰へ近づけた。
針先が白く曇り、すぐに薄い灰へ沈む。
「黒紙媒介……に近いです。でも、使い切った残りですね」
オリヴァーは小瓶を光にかざした。
「探り役は、核を扱える者ではないかもしれない。道具を持たされて、封印の強さを見に来た程度だ」
「セヴラン系ですか」
ロアンが小さく言う。
「可能性は高い」
オリヴァーは小瓶を封じた。
「ただし、ここで断定はしない。断定より、次に何を守るかだ」
店主が腕を組む。
「地下封印は三重。奥部屋と裏口に反応糸。屋根はまだ薄いな」
「魔術組合に頼みます。屋根伝いの干渉検知を追加しましょう」
「表の店先はどうする。客を完全に止めれば、かえって目立つぞ」
「表向きは臨時修理期間。通常客は受ける。ただし地下へ近づく導線は全部塞ぐ。封印具の相談客は、店先の机で対応。奥へ入れない」
ロアンが書きながら頷く。
「実務会合の場所は、ここじゃない方がいいですね」
「そうだ」
オリヴァーは店主を見た。
「明日の実務会合は、三組合が共同で使う集会所にしましょう。魔道具屋へ大勢を入れる必要はない」
店主は即座に頷いた。
「うちに人を集めれば、地下があると教えるようなものだ」
「集会所には、外向きの議題だけを持っていく」
オリヴァーは机に置かれた外向き議事録を指で押さえた。
「グレイル村周辺の調査。薬草と水と土の検査。流通荷の一時保留。調査隊の編成。地下の核については一切触れない」
ダリオが低く言った。
「相手は、会合にも来ますかね」
「来るだろう」
オリヴァーは淡々と答えた。
「だから来させる。ただし、見せるものは選ぶ」




