道を失わないために 2
ミラが目を開けたのは、夕方近くだった。
天井の木目がぼんやり見える。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
水の音。
白い苔。
黒塗りの木箱。
謎の青年。
騎士団を名乗る一団。
エリオットの右腕。
記憶が一気に戻る。
「……旧排水路に」
言いかけた瞬間、寝台の横にいたエリオットが身を乗り出した。
「行かせない」
早かった。
あまりに早くて、ミラは瞬いた。
入口付近にいたセリアも、記録板を手にこちらを見ている。ニーナは水差しを持ったまま固まり、レオンは壁際で腕を組んでいた。
全員が、止める準備をしていた。
ミラはゆっくり息を吸った。
夢の中の水音が、まだ胸の奥に残っている。
黒を抱きしめてはいけない。
黒を白で覆い尽くそうとしてはいけない。
道を示しなさい。
ミラは唇を結び、それから小さく首を横に振った。
「……いえ。今は、行きません」
診療小屋の空気が変わった。
エリオットの目が、わずかに見開かれる。セリアの筆が止まる。ニーナは今にも泣きそうな顔で息を吐いた。
「まず、記録を見せてください」
ミラは続けた。
「患者さんの経過と、水の状態。旧排水路の残留反応。私が見に行かなくても分かることから確認します」
セリアが、ほんの少しだけ目を細めた。
「白花は使いませんね」
「使いません」
「診察も?」
「触診と聞き取りだけにします。白花は使いません」
「記録します」
セリアはすぐに筆を走らせた。
「白花使用者、覚醒直後に旧排水路再調査を望むも、自制。力の即時使用ではなく、記録確認と役割分担を優先。夢または内的経験による認識変化の可能性」
「そこまで書くんですか……」
「書きます」
いつもの調子だった。
ミラは、少しだけ笑いそうになった。笑う力は、まだあまりなかったけれど。
ニーナが水を差し出した。
「地上水です。少しずつ飲んでください」
「ありがとうございます」
ミラは両手で杯を受け取ろうとして、手に力が入らないことに気づいた。
エリオットがそっと杯を支える。
「無理に持つな」
「……すみません」
「謝るところじゃない」
ミラは少しずつ水を飲んだ。
ただの水なのに、喉を通るだけで体が驚いているようだった。白花の奥が、まだ眠りたがっている。
「どれくらい眠っていましたか」
「一日半です」
セリアが答えた。
「最低でも今日いっぱいは寝台から出ないでください」
「でも、患者さんが」
「患者さんは見ています」
ニーナがすぐに言った。
「ミラさんの分類表通りに、水と薬草を分けています。ニルスの熱は下がっています。マルコさんの呼吸も、昨日より安定しています。リタさんはまだ手足が冷えますけど、悪くはなっていません」
ミラは目を伏せた。
「……よかった」
「よくありません」
エリオットが低く言った。
ミラは顔を上げる。
「君が倒れた」
その声は、責めているわけではなかった。
ただ、痛みがあった。
「村を救うために必要だったことは分かっている。だが、君が倒れたら、皆が怖い」
ミラは何も言えなかった。
胸の奥に、夢の言葉がまた響く。
道を戻す者が、道を失ってはいけない。
「……すみません」
「謝らなくていい」
エリオットは首を横に振った。
「次から、分ければいい」
その言葉に、ミラはゆっくり頷いた。
「はい。分けます」
セリアは、机の上に記録を並べた。
患者の経過。
水場の反応。
旧排水路の残留反応。
騎士団系一団の特徴。
謎の青年の発言。
木箱搬出後の水音の変化。
ミラは寝台に体を起こしたまま、一つずつ目を通した。
文字を追うだけで疲れる。
けれど、白花を使うよりはずっと負担が少ない。
「水場の反応は、少し弱まっていますね」
「はい」
セリアが頷く。
「木箱を奪われたことで旧排水路内の固定は乱れましたが、ミラさんの封印で水路との直接干渉はかなり薄くなっています。ただし、土壌と水脈の残留反応はあります」
「今すぐ戻さないと、また悪化しますか」
「今すぐではありません」
セリアはきっぱり言った。
「地上水への切り替えが効いています。患者も悪化していません。旧排水路は封鎖済み。今必要なのは、再汚染の監視と、残留反応の記録です」
ミラは唇を噛みかけた。
今すぐ戻したい。
水脈も土壌も、正しい道へ戻したい。
けれど、夢の中の娘は、黒を抱え込まなかった。
細い道を示し、剣へ根を示し、仲間へ役割を渡していた。
「……では、残留反応の場所を地図に落としてください」
ミラは言った。
「私が直接見る前に、反応針と白石布で分けたいです。水、土、苔、患者。どこにどのくらい残っているか」
セリアの筆が止まる。
そして、すぐに走り始めた。
「白花使用者、残留反応に対し即時浄化ではなく、分類と地図化を提案」
「また記録してる……」
「重要です」
セリアの声は、どこか満足そうだった。




