道を失わないために 1
ミラが眠り続けて、一日半が過ぎた。
カーヴェル坑下村の診療小屋には、静かな緊張が張りついていた。
患者たちの咳は、完全には止まっていない。けれど、地上から運び込んだ水へ切り替えてから、悪化する者は出ていなかった。水汲み場で倒れたマルコは夜に一度強く咳き込んだが、朝には呼吸が落ち着いた。ニルスの熱も、少しずつ下がっている。
それでも、誰も安心とは言わなかった。
水場はまだ使えない。
旧排水路には、黒塗りの木箱を外された痕が残っている。
カーヴェルの水脈は、完全には戻っていない。
そして、木箱は奪われた。
その事実だけが、診療小屋の空気を重くしていた。
セリアは、診療小屋の隣室で記録を整理していた。
机の上には、患者の経過、旧排水路の図、木箱の封印記録、騎士団系一団の特徴、未名乗りの青年の発言、そしてエリオットの右腕の記録が並んでいる。
エリオットは椅子に座り、右腕を白石布で包まれていた。
「熱は」
「昨日よりは下がった」
「痛みは」
「手首から肘。小指の先はまだ痛むが、感覚はある」
セリアは筆を止めずに書き込む。
「小指先端の触覚、継続。痛みあり。熱は前日より低下。ただし白銀反応の残滓あり」
「……全部書くんだな」
「当然です」
セリアは顔も上げずに答えた。
「ミラさんが目を覚ました時、判断材料が必要ですから」
エリオットは、隣室の寝台へ視線を向けた。
ミラはまだ眠っている。
顔色は、昨日より少しだけ戻った。けれど、白花は花弁を閉じるように、淡い光を内側へしまっている。
セリアはその視線に気づき、少しだけ声を和らげた。
「ミラさんの白花周辺に、黒系残滓はほとんど寄っていません」
「どういう意味だ」
「おそらく、あなたの右腕から漏れている剣性反応が、周囲の黒を遠ざけています」
エリオットは眉を寄せた。
「漏れているのか」
「強いものではありません。黒を断つほどではなく、拒む程度です。ミラさんを治しているわけではありませんが、白花が休むための場を作っている可能性があります」
「……俺が?」
「ええ」
セリアはようやく顔を上げた。
「だから、動かないでください。そばにいるだけで十分な場合もあります」
エリオットは黙った。
木箱は奪われた。
騎士団らしき三人を止められなかった。
謎の青年も逃がした。
それでも、そばにいるだけでできることがある。
その言葉は、思っていたより深く胸に残った。
ミラは、夢を見ていた。
水の音がする。
カーヴェルの旧排水路の水音ではない。
もっと古く、もっと澄んだ水音だった。
白い花が咲く水辺に、一人の娘が立っている。
娘は白い光を手に宿していた。けれど、その光を広げて黒を塗り潰そうとはしなかった。
黒い水がある。
水の底に、絡みつく根がある。
その根は冷たく、見ているだけで胸が苦しくなる。
娘は、そこへ手を伸ばさない。
代わりに、水の中に残った細い流れを探した。
黒に覆われた水の奥に、まだ失われていない本来の道がある。
その道へ、白花の光を細く通す。
黒を抱きしめてはいけない。
声がした。
黒を白で覆い尽くそうとしてはいけない。
ミラは、夢の中で息を呑む。
あなたが探すのは、黒ではなく、黒に隠された本来の道。
娘の隣に、剣を持つ騎士が立っていた。
娘は黒い根を指し示す。
騎士は、その根だけを断つ。
水を運ぶ人々がいた。
傷ついた者を寝かせる者がいた。
封印具を置く者がいた。
道が戻るまで待つ者がいた。
白花の娘は、一人ではなかった。
道を示しなさい。
声は、やわらかく、けれど確かだった。
断つのは、剣の役目。
支えるのは、人の役目。
休むことも、道を失わないための役目。
水音が遠ざかる。
最後に、白い花が一度だけ揺れた。
――道を戻す者が、道を失ってはいけない。




