落とさなかったもの 3
夕方になる頃、村には少しずつ情報が回り始めていた。
旧排水路の奥にあった木箱は、騎士団を名乗る一団に持ち去られた。
けれど、その前にミラが封印し、水への干渉は弱まった。
水場はまだ使えない。
地上水の運搬は継続。
患者の症状は、すぐ悪化してはいない。
ニーナは診療小屋で患者を回り続けた。
「水はこの札のものだけです。薬草茶は、今日の分はこちら。喉が冷える感じがしたらすぐ呼んでください」
彼女は何度も同じ説明を繰り返した。
声は枯れかけていたが、止まらなかった。
レオンはロベルトと共に旧排水路の入口を確認した。騎士団系一団が残した足跡、金具の擦れ、木箱を運び出した痕。ロベルトはその全てを青ざめた顔で見ていた。
「あれは……本当に騎士団だったのですか」
「少なくとも、騎士団の名を使える者たちだ」
レオンは答えた。
「普通の地方騎士団ではない」
「私の記録に、そう書いてよいのですか」
「書け。見たままを」
ロベルトは震える手で記録を取った。
逃げることは、もうできなかった。
夜、エリオットはミラの寝台のそばに座っていた。
セリアには休めと言われた。
ニーナにも言われた。
レオンにも、邪魔にならない範囲で寝ろと言われた。
だが、離れられなかった。
ミラはまだ眠っている。
時折、眉を寄せる。
指先が小さく動く。
胸元の白花が、弱く、内側で光る。
夢を見ているのかもしれない。
エリオットは、布をかけ直した。
右腕は使わない。
左手で、そっと。
「君は、また戻ろうとするだろうな」
小さく呟く。
目覚めれば、きっと旧排水路へ行くと言う。
水脈を確認する。
土壌を戻す。
患者を診る。
エリオットの右腕も診る。
自分の体のことは、最後にする。
「行かせない」
エリオットは低く言った。
「今度は、止める」
それが彼女の望むことではなくても。
守るとは、時に進ませないことだ。
そう思わなければ、彼女はまた倒れる。
寝台の上で、ミラの指先がわずかに動いた。
エリオットは息を止める。
けれど、彼女は目を覚まさなかった。
代わりに、胸元の白花がほんの少しだけ光る。
ミラは夢を見ていた。
水の音がする。
けれど、カーヴェルの旧排水路の水音ではない。
もっと遠く、もっと古い場所の水音。
白い花が咲いている。
そのそばに、一人の娘が立っている。
娘は、疲れた顔をしていた。
けれど、一人ではなかった。
その隣には剣を持つ騎士がいた。
後ろには水を運ぶ人々がいた。
傷ついた者を支える者がいた。
封印具を置く者がいた。
祈る者がいた。
娘は、すべてを一人で浄化しているのではなかった。
水の道を戻す。
黒の根を示す。
剣が断つべき場所を見つける。
それが、彼女の役目だった。
剣は、黒を断つ。
人々は、水を運ぶ。
誰かが傷ついた者を休ませる。
誰かが土地が戻るまで待つ。
白花の娘は、一人で伝説になったのではない。
守られ、支えられ、止められながら、それでも手を伸ばした。
ミラは夢の中で、その光景を見ていた。
そして、誰かの声を聞いた気がした。
――道を戻す者が、道を失ってはいけない。
水音が、静かに遠ざかっていく。
エリオットは、ミラの胸元の白花が一度だけ淡く光るのを見た。
その光は、カーヴェルの偽白とは違う。
温かく、静かで、眠りを守るような白だった。
エリオットは椅子に座ったまま、深く息を吐いた。
右腕はまだ痛む。
木箱は奪われた。
敵は王都へ向かうだろう。
未名乗りの青年も、反応片を持って去った。
だが、今は追えない。
ミラを起こしてはいけない。
村を放り出してはいけない。
できることを、一つずつ。
彼女がいつもしてきたように。
「今は休め、ミラ」
エリオットは囁いた。
「ここは、俺たちが繋ぐ」
坑道下の村に、夜が沈む。
水場の札はまだ揺れている。
患者の咳も、完全には消えていない。
旧排水路の奥には、木箱の消えた痕が残っている。
それでも、村の水音は、昨日よりほんの少しだけまっすぐだった。




