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落とさなかったもの 1

 旧排水路の向こうへ、騎士団を名乗る一団の足音が遠ざかっていった。

 黒塗りの木箱を運ぶ重い足音。

 金具が擦れる音。

 命令に返事をしない、異様に静かな三人の気配。

 やがて、それらは水音に紛れて消えた。

 小部屋には、木箱のあった跡だけが残っている。

 石床の中央には、導管を外された水路。

 壁には、封印布を剥がされた跡。

 そして、わずかに整いかけた水の音。

 ミラは、エリオットの腕の中で意識を失っていた。

「ミラ!」

 セリアが駆け寄る。

 エリオットは右腕でミラの肩を支えたまま、歯を食いしばっていた。顔色が悪い。額には汗が浮かび、右腕全体が小刻みに震えている。

「エリオットさん、その腕――」

「後だ」

 声は掠れていた。

「ミラを、先に」

 セリアは一瞬だけ迷い、それから強く頷いた。

「分かりました。レオンさん、退路を」

「任せろ」

 レオンは小部屋の入口へ走り、旧排水路の通路を確認する。

 ロベルトは壁に手をついたまま、まだ木箱が消えた場所を見つめていた。顔は蒼白で、唇が震えている。

「騎士団が……あんな……」

「ザイル氏!」

 レオンの声が飛ぶ。

「立て。ここで呆けている場合じゃない。道案内をしろ」

 ロベルトははっとして顔を上げた。

「は、はい」

「一番早く診療小屋へ戻れる道は?」

「来た道を戻るのが確実です。途中の右分岐は狭いが、水量は少ない」

「先導しろ」

 ロベルトは頷き、坑道灯を掴んだ。

 エリオットはミラを抱え直そうとして、右腕に激痛が走った。

「っ……」

 膝が落ちかける。

 セリアが即座に支えた。

「右腕を離してください。左で支えて。私が肩を持ちます」

「落とせない」

「落としません」

 セリアの声は鋭かった。

「ミラさんを診療小屋へ戻すためにも、あなたの腕をこれ以上壊さないでください」

 エリオットは一瞬、唇を噛んだ。

 右腕はまだミラの服地を感じている。

 小指の先まで、彼女を支えていた感覚が残っている。

 離したくなかった。

 けれど、セリアの言う通りだった。

 エリオットはゆっくり右腕の力を抜き、左腕でミラを抱え直す。セリアが反対側から支え、ミラの体を安定させた。

 その瞬間、右腕の感覚が急に遠のいた。

 戻りかけていたものが、また深いところへ沈んでいくような恐怖が走る。

 エリオットは息を止めた。

「エリオットさん」

 セリアが低く言う。

「記録は後で取ります。今は歩いてください」

「ああ」

 エリオットは頷いた。

 今、倒れるわけにはいかない。

     

 旧排水路を戻る道は、行きよりも長く感じられた。

 水音は、先ほどより少しだけまっすぐになっている。迷うように左右へ跳ねていた音が、細い一本の流れへ戻りかけていた。

 だが、完全ではない。

 木箱が無理やり外されたせいで、水路の一部がまだ震えている。壁の白い苔も、光を失いきらないまま、ところどころで冷たく明滅していた。

 セリアは歩きながらも、視線を走らせて記録する。

「水音、やや安定。ただし旧排水路内に残留反応あり。木箱搬出後、導管痕周辺に灰白反応。再確認必要」

 その冷静な声だけが、全員を現実に繋ぎ止めていた。

 ミラは目を覚まさない。

 呼吸はある。

 けれど浅い。

 エリオットは何度も彼女の顔を見た。

 色が白い。

 いつもの、雪のような肌とは違う。力を使い果たした後の、血の気の引いた白さだった。

「ミラ」

 呼んでも、返事はない。

 右腕が痛む。

 だが、その痛みより、腕の中の軽さの方が怖かった。

 この子は、いつもこうだ。

 目の前の患者を見れば、自分の体を後回しにする。

 村が苦しんでいれば、水路も土壌も全部戻そうとする。

 そして、倒れるまで止まらない。

 止めなければならなかった。

 もっと早く。

 エリオットは、奥歯を噛み締めた。

「エリオットさん」

 セリアが小さく言った。

「今は自分を責めないでください。あなたが支えなければ、ミラさんは石床に倒れていました」

「だが、木箱は奪われた」

「封印記録は残っています。水路の干渉も弱まりました。木箱は奪われましたが、何もかも失ったわけではありません」

「……そう思えるほど、まだ冷静ではない」

「でしょうね」

 セリアは淡々と返した。

「だから、私が記録します」

     


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