先生の名 3
青年は突然、術式の向きを変えた。
核本体ではなく、木箱の外縁へ。
「レオンさん!」
ミラが叫ぶ。
レオンが踏み込む。
だが、青年の狙いは核ではなかった。
木箱の古い外殻の一部。
封印時に白花が触れ、エリオットの拒絶反応を受けた黒い線の欠片。
そこへ、黒い糸が絡む。
ぱき、と乾いた音がして、外殻片が剥がれた。
セリアが封印布を投げる。
しかし、青年はその破片を黒い紙片で包み込む方がわずかに早かった。
「核本体は……今回は譲ります」
声が震えていた。
悔しさと焦りと、何より恐れ。
「でも、反応は取れました。白花と騎士の反応を受けた外殻片。先生なら、きっと」
「逃がすか!」
レオンが追う。
青年は懐からもう一枚、偽白の紙片を投げた。
坑道灯の光が一瞬白く濁る。
視界が歪む。
水音が左右に裂ける。
ミラは白花で水の道を押さえた。
その間に、青年は小部屋の入口へ退いていた。
彼は最後に、ミラたちを振り返る。
悔しそうな、泣きそうな、それでいてどこか誇らしげな顔だった。
「先生は、あなたたちを見ています」
ミラの背筋が冷える。
「白花も、騎士も、核も。全部、先生の観測の中です」
「セヴラン・ノックスに伝えてください」
セリアが鋭く言った。
「次は、観測対象では済ませません」
青年の顔が歪んだ。
「先生を脅すなんて」
彼は低く呟いた。
「あなたたちは、何も分かっていない」
次の瞬間、偽白の光が弾けた。
冷たい白が小部屋を満たす。
レオンが舌打ちし、剣で光を払う。
白が消えた時、青年の姿はなかった。
しばらく、誰も動かなかった。
木箱は残っている。
核本体も、白い繭の内側に封じられたままだ。
しかし、木箱の外縁には、小さく欠けた跡があった。
セリアがすぐに駆け寄り、記録板に書きつける。
「未名乗りの青年。セヴラン系術者の可能性が高い。エルダント偽白灯籠事件への関与を自白に近い形で発言。先生=セヴラン・ノックスの可能性、極めて高い。外殻片、一部喪失。封印時の白花反応、騎士の剣性反応を受けた箇所」
ミラは、まだ入口の方を見ていた。
先生は見ている。
その言葉が耳に残っている。
グレイル村。
エルダント。
カーヴェル。
全部が、ひとつの線で繋がっていた。
「ミラ」
エリオットの声に、ミラは振り返った。
彼は右腕を押さえたまま、壁にもたれている。
顔色が悪い。
ミラはすぐに駆け寄った。
「診せてください」
「核は」
「核より先に、あなたです」
強い声だった。
エリオットは一瞬、言葉を失う。
ミラは白石布を右腕へかけ、白花を細く灯した。
右腕の奥は熱を持っていた。さきほど漏れた白い剣性反応の分だけ、封鎖が軋んでいる。けれど、壊れてはいない。
壊れていない。
ミラは、ようやく息を吐いた。
「……大丈夫です。でも、今日はもう絶対に右腕を使わないでください」
「使っていない」
「漏れました」
「……ああ」
「漏れるのも駄目です」
エリオットは苦い顔をした。
「難しいことを言う」
「言います」
ミラの声は震えていた。
「戻ってきているからこそ、壊したくないんです」
エリオットは黙った。
胸の奥で、先ほどの衝動がまだ燻っている。
ミラに近づけるな。
黒を断て。
守れ。
だが、その衝動に飲まれれば、ミラを悲しませる。
それだけは、嫌だった。
「分かった」
エリオットは静かに言った。
「抑える」
「約束です」
「ああ」
セリアが封印布を補強し、レオンが入口を警戒する。
ロベルトは、木箱の欠けた跡を青ざめた顔で見つめていた。
「あの青年は……何者なんです」
「セヴラン系の実働者でしょう」
セリアが答えた。
「少なくとも、エルダントの偽白灯籠に関与している。そして、この核のことを知っていた」
「つまり、商会本部の背後にも」
「まだ断定はしません」
セリアは記録板を閉じた。
「でも、繋がりました」
ミラは黒塗りの木箱を見た。
白い繭の中で、核は封じられている。
村の水への干渉は弱まった。
患者たちも、少しずつ楽になるはずだ。
けれど、敵はこの場を見ていた。
反応の欠片を持ち去った。
そして、まだ終わっていない。
レオンが不意に顔を上げた。
「……足音だ」
全員が動きを止める。
旧排水路の奥ではない。
村の方。
地上側から、複数の足音が近づいてくる。
規則正しい。
重い。
騎士の歩幅。
エリオットの右手が、補助具の中でぞわりと熱を持った。
核への反応とは違う。
人だ。
けれど、ただの人ではない。
エリオットは低く息を吐いた。
「……来る」
ミラが彼を見る。
「何がですか」
答える前に、排水路の入口の向こうで、金属の擦れる音が響いた。
そして、冷たい声が聞こえた。
「騎士団による危険物回収任務だ。封鎖区域内の瘴気性触媒を、こちらの管理下へ移す」
レオンの表情が険しくなる。
セリアが記録板を握り直す。
ミラは、白い繭に包まれた黒塗りの木箱の前へ立った。
エリオットは右腕を押さえたまま、入口を見据える。
その足音の中に、右手が強く反応する者がいた。
一人ではない。
三人。
人であって、人でないもの。
守護騎士の本能が、そう告げていた。




