先生の名 2
「渡してもらいます」
青年は、右手を木箱へ向けた。
指先に黒い術式が灯る。
それは、エルダントの偽白灯籠で見た冷たい白をまとっていた。白に見せかけた黒。黒を隠すための白。水路に絡み、白花を誤った方へ引こうとする糸。
セリアが叫ぶ。
「封印布から離れてください!」
ミラは木箱の前へ出ようとした。
だが、エリオットが左手で止める。
「正面から受けるな」
「でも、封印が」
「見ろ。どこへ伸びている」
その声で、ミラは息を整えた。
全部を見ない。
黒い術式を追わない。
水の道を見る。
青年の黒い糸は、木箱本体へ直接伸びているのではなかった。導管の根元、セリアが封印布で留めた場所を狙っている。そこを剥がせば、水路との接続が揺れ、核を引き寄せやすくなる。
「右下です!」
ミラが叫ぶ。
セリアが即座に封印具を押さえ直した。
青年の目が見開かれる。
「見えたんですか」
「水の道は、あなたのものじゃありません」
ミラは白花を細く伸ばした。
黒い術式を押し返すのではない。
水が本来流れたい道へ、もう一度戻す。
青年の黒い糸は、偽白をまとってミラの白花へ絡みつこうとした。だが、その直前、エリオットが低く言う。
「下から来る」
ミラは白花を引いた。
次の瞬間、床の水路から黒い糸が跳ね上がる。
レオンの剣がそれを叩き落とした。刃に黒い火花が散る。
「こいつ、厄介だな」
レオンが舌打ちする。
「先生の術式です。厄介で当然でしょう」
青年は得意げに言った。
けれど、その声には少し焦りが混じり始めていた。
術式が通らない。
セヴランの術式を使っているのに。
エルダントでは確かに偽白は反応した。
白花も、騎士の右腕も揺らした。
なのに今は、ミラの白花が水の道を外さない。
エリオットの右手が、黒い誘導の位置を読んでいる。
「先生の式なのに……」
青年の唇がわずかに震えた。
「どうして」
木箱の奥で核がまた震える。
青年は焦ったように、もう片方の手で懐から黒い紙片を取り出した。そこには細い白線が描かれている。偽白の媒介だ。
セリアの顔色が変わる。
「それを使わせないでください!」
青年が紙片を水路へ落とす。
冷たい白が水面を走った。
白花が一瞬、そちらへ引かれそうになる。
ミラの視界が揺れた。
エルダントの灯籠と同じ。
白に見える。
救うべき流れに見える。
けれど違う。
あれは冷たい。
「ミラ!」
エリオットの声が届く。
左手が、彼女の腕を掴んだ。
その温かさで、ミラは我に返る。
「……偽白です」
ミラは唇を噛んだ。
「本当の道じゃない」
白花の光を、細く絞る。
偽白ではなく、その下に隠れた本来の水の道を探す。
見えた。
細い。
弱い。
でも、冷たくない。
「こっち!」
ミラの白花が、本来の水路へ届いた。
水音が整う。
偽白の紙片が、灰色へ沈む。
「そんな」
青年が息を呑んだ。
エリオットの右腕が、補助具の中で強く熱を持つ。
黒い術式がミラへ伸びる気配がした。
近づけるな。
右腕の奥で、白い剣性反応が弾けかける。
エリオットは歯を食いしばった。
使うな。
まだ使うな。
それでも、黒い誘導がミラの肩へ触れようとした瞬間、右腕の奥から漏れた白い反応が、わずかに外へ滲んだ。
刃ではない。
斬撃でもない。
ただ、拒絶だった。
黒い糸が、ミラへ触れる直前で焼ける。
青年が目を見開いた。
「今の……!」
彼の顔に、恐怖ではなく歓喜が浮かぶ。
「やっぱり。剣だ。先生の言った通り、白花のそばで剣が起きかけている」
「エリオットさん!」
ミラは振り返る。
エリオットは右腕を押さえ、荒く息を吐いていた。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃありません」
「まだ、止められる」
その声には、強い意志があった。
ミラは一瞬だけ迷った。
エリオットを診たい。
けれど、今止まれば青年に封印を崩される。
エリオットはそれを分かっていた。
「続けろ」
ミラは頷いた。
白花を木箱の白い繭へ重ねる。
青年の黒い術式は、何度も継ぎ目を探した。けれど、水の道を戻され、封印布に留められ、エリオットの感知に阻まれ、核本体へ届かない。
やがて、青年の表情から余裕が消えた。
「どうして……先生の術式なのに」
彼は木箱を見た。
封印された核は、白い繭の内側で震えている。
だが、動かない。
引き寄せられない。
核本体は回収できない。
その事実が、青年の顔を青ざめさせた。
「手ぶらでは……帰れない」
小さな声だった。




