先生の名 1
ミラは、反射的に黒塗りの木箱から一歩離れた。
核の封印を終えたばかりだった。白花の力はまだ胸の奥で強く脈打ち、指先には水の道を辿った感覚が残っている。息は浅く、膝には力が入りきらない。
そんな時に現れた青年は、あまりにも場違いだった。
濃紺の外套。整えられた髪。どこか幼さの残る顔。
けれど、その目だけが熱を帯びていた。
「……誰ですか」
ミラが問うと、青年は首を傾げた。
「名乗る必要がありますか?」
レオンが剣を前へ出した。
「ある。ここは封鎖された旧排水路だ。村の者でも、商会の者でもないなら、侵入者だ」
「侵入者」
青年はその言葉を面白がるように繰り返した。
「面白い言い方ですね。もともとこの核は、あなた方のものではありません」
セリアが、封印布を押さえたまま目を細める。
「核と言いましたね。中身を知っているんですか」
「もちろんです」
青年は誇らしげに言った。
「先生の観測対象ですから」
先生。
その言葉に、ミラの胸の奥が冷えた。
どこかで聞いた言葉だった。
グレイル村で荷を運ばされていたネロ。
彼も、指示を出していた相手をそう呼んでいた。
そして、ライヘルからの手紙にもあった。
黒い盤。
先生という語。
禁術派研究院のセヴラン・ノックスへ繋がる可能性。
ただし、断定はできない。
その時のミラには、セヴラン・ノックスが具体的に何をしている人物なのか、まだ分からなかった。
けれど今、その名へ繋がりそうなものが、目の前でまた一つ増えた。
エリオットが、ミラの斜め前に立つ。右腕は補助具の中に収めたまま。けれど、その周囲の空気が張り詰めている。
「先生とは誰だ」
低い声だった。
青年は少しむっとしたように眉を寄せた。
「あなた方が軽々しく知ってよい方ではありません」
「エルダントの偽白灯籠も、あなたの仕業ですか」
セリアの問いに、青年の目がぱっと輝いた。
それは、責められた者の反応ではなかった。
褒められるのを待つ子どものような、浅く熱い反応だった。
「ええ。あれは僕が仕込みました。完全ではありませんでしたが、白花の識別反応と、騎士の右腕の反応が取れた。先生も興味深いとおっしゃってくださったんです」
ミラは息を呑んだ。
エルダントの夏灯祭。
偽白灯籠。
あの夜、エリオットの右手が危険を感じて反応した。
あれを仕込んだのが、この青年。
「だから、今度は核も回収します」
青年は、封印された木箱へ視線を向けた。
「白花と騎士の反応を受けた核なんて、先生が欲しがらないはずがありません」
セリアが一歩前へ出た。
「黒系術式。偽白。核への干渉。そして“先生”。」
彼女の声は静かだったが、硬い。
「それは、セヴラン・ノックスのことですか」
青年の表情が変わった。
ほんの一瞬、動揺が走る。
それから、怒りに似た熱が目に宿った。
「先生の名前を、軽々しく呼ばないでください」
答えは、それで十分だった。
ミラの中で、ばらばらだった点が繋がっていく。
グレイル村の荷。
前に封じた核。
エルダントの偽白灯籠。
カーヴェルの黒塗り木箱。
水の道を曲げる術式。
そして、セヴラン・ノックス。
「あなたが……エルダントで」
ミラの声が震えた。
「街の人たちを巻き込んだんですね」
「巻き込んだ?」
青年は心底不思議そうに瞬いた。
「あれは観測です。危険は調整していました。実際、大きな被害は出ていないでしょう」
「出なければいい、という話ではありません」
「では何ですか」
青年は苛立ったように言った。
「白花は反応した。騎士の右腕も反応した。先生の仮説は前へ進んだ。それだけで十分です」
その言葉に、ミラは怒りより先に、ぞっとした。
この青年は、人を傷つけたいのではない。
ただ、人を人として数えていない。
セヴランと同じ側にいる。
そう思った瞬間、黒塗りの木箱の奥で核が小さく震えた。




