白い繭 1
黒塗りの木箱は、水音の中で沈黙していた。
旧排水路の小部屋に、誰もすぐには踏み込まなかった。壁一面に広がる白い苔は、坑道灯の光を受けて淡く浮かび上がっている。けれど、その白は花の白ではない。雪の白でも、朝の光の白でもない。
冷たい。
ミラの胸元で、白花のペンダントが震え続けていた。
「……あれが、村の水を曲げているもの」
声に出すと、ひどく重く響いた。
水路から引かれた細い導管は、木箱の底へ繋がっている。そこを通った水が、箱の下で一度冷たい白に触れ、再び村の水場へ戻される仕組みになっていた。
水源を丸ごと汚しているのではない。
流れの途中で、わずかに性質を変えている。
だから水は澄んだまま。
だから誰も気づきにくい。
だから村人たちは、毎日それを飲み、薬草を洗い、坑道苔を育ててしまった。
「悪趣味な仕掛けだな」
レオンが低く呟いた。
ロベルトは、黒塗りの木箱を見たまま青ざめている。
「私は……あれを、補強材だと」
「今は言い訳より、証言です」
セリア・ナクトが静かに言った。
「木箱の外形、導管の位置、封印線、周囲の苔の状態。全部記録します。ロベルトさんは、搬入時の状況を後で書いてください」
「……分かりました」
ロベルトはかすれた声で答えた。
ミラは一歩前へ出ようとした。
その瞬間、エリオットが息を詰めた。
「待て」
ミラは振り返る。
エリオットの右腕が、補助具の中で熱を帯びていた。
今までとは違う。
手のひらだけではない。
手首から前腕、肘の奥、肩に近いところまで、白く灼けるような熱が走っている。
エリオットは左手で右腕を押さえた。
額にうっすら汗が浮かぶ。
「エリオットさん」
「近い」
声が低い。
「前に封じた核に似ている。だが……もっと水に絡んでいる」
ミラは、木箱へ視線を戻した。
黒塗りの箱の内側に、何かがある。
見えないのに、分かる。
水を曲げている核。
瘴気封入触媒の中核。
黒いものの奥で、冷たい白の膜をまとい、じっとこちらを見ているような気配。
エリオットの呼吸が乱れた。
彼の右手の中で、何かが目覚めようとしている。
小指の先まで、感覚が届く。
布の圧。
補助具の内側の重み。
指先に触れる空気の熱。
動かせる。
一瞬、そう感じた。
いや、動かしたいのではない。
断ちたい。
黒を断て。
水に絡むものを断て。
治癒の娘へ触れさせるな。
その衝動は、右腕の奥から湧いた。けれど、腕だけのものではなかった。
ミラを守りたい。
その思いが、同じ熱で胸の奥を灼いた。
「……エリオットさん?」
ミラの声が届く。
エリオットは、歯を食いしばった。
ここで使えば、どうなるか分からない。
王都の聖遺物にも触れていない。
守護騎士として正式に目覚めたわけでもない。
二年前の封鎖は、まだ右腕の奥に残っている。
今、無理に黒を断とうとすれば。
戻りかけた腕が、今度こそ壊れるかもしれない。
そして、ミラはそれを望まない。
「……触らない」
エリオットは絞り出すように言った。
「右手は、使わない」
ミラの表情が、泣きそうなほど安堵に揺れた。
「はい」
その顔を見て、エリオットはさらに強く右腕を押さえた。
守るために、使わない。
それもまた、今の自分にできることだった。




