迷う水の道 2
右分岐へ入ると、空気はさらに重くなった。
水路は細く、半ば人工的に掘り直されたようだった。壁には新しい工具痕がある。古い排水路に見せかけているが、最近削られた石の角が残っていた。
セリアがしゃがみ込む。
「ここ、補修ではありません。水を引き込むために削っています」
「水を?」
ロベルトの声が震えた。
「補強材を置く場所ではないのか」
「少なくとも、普通の補強ではありません」
レオンが壁の下を指した。
「金具の跡がある。何かを固定したな」
ミラは壁に近づきすぎないようにしながら、白花の感覚を向ける。
そこには、道があった。
水の道を引き寄せる細い道。
けれど、水そのものではない。
水に触れて、水の流れを少しずつ横へずらすための道。
「……水を、ここで曲げています」
ミラは言った。
「この横穴へ引き込んで、何かに触れさせてから、また村の水場へ戻している」
「循環か」
レオンが低く呟く。
セリアの表情が険しくなった。
「水源そのものを汚すより厄介です。流れの途中で干渉させれば、見た目の水は澄んだまま、性質だけを変えられる」
ロベルトは壁に手をつきかけ、セリアに止められた。
「触らないでください」
「……すみません」
彼は手を引っ込めた。
その顔には、恐れだけではなく怒りもあった。
「補強材ではなかったんですね」
誰も答えなかった。
答えなくても、分かっていた。
さらに進むと、足元の水音が変わった。
音が近い。
けれど、方向が掴めない。
右から聞こえたはずなのに、左へ抜ける。
前から聞こえたはずなのに、背後へ回り込む。
ミラは再び足元が揺れるのを感じた。
けれど今度は、倒れなかった。
エリオットがすぐ隣にいる。
その気配が、自分を石床に繋ぎ止めてくれる。
「大丈夫です」
ミラは先に言った。
「まだ見られます」
「無理はするな」
「はい」
白花の光を、一本の糸のように細くする。
正しい水の道は、さらに奥へ続いていた。
ただし、その先で何度も折れている。
何かを避けようとしているのではない。
何かに絡め取られ、引き寄せられ、また押し返されている。
まるで水路そのものが、迷路に閉じ込められているようだった。
エリオットが右腕を押さえる。
補助具の中で、手のひらの熱がはっきり強くなっていた。
「近い」
低い声だった。
「前に封じた核に似ている。だが、こちらは水の中に根を張っている感じがする」
「根……」
ミラはその言葉に、胸の奥が冷えるのを感じた。
核があるだけではない。
水へ絡ませるための仕掛けがある。
セリアが封印布の束を握り直した。
「核そのものに触れる前に、周囲の水路干渉を切り分ける必要があります。いきなり封じると、水の逃げ道が乱れるかもしれません」
「なら、まず道を見る」
レオンが言った。
「ミラ、行けるか」
「はい」
ミラは頷いた。
今は、見える。
歪み全部ではなく、正しい流れだけを辿れば。
第二分岐に着いた時、ロベルトが足を止めた。
「ここから先は、私も入りませんでした」
声が掠れている。
「本部から来た者たちは、この先へ箱を運びました。私は、ここで戻れと言われた」
「何人だった」
レオンが聞く。
「四人。商会の荷運びに見せていましたが、動きが違いました。重い箱を運んでいるのに、息が乱れない。坑道の白い苔にも、気味悪がる様子がなかった」
レオンの目が細くなる。
セリアも記録する手を止めなかった。
「本部手配の作業員四名。重荷への反応薄。坑道内環境への恐怖反応なし」
「……普通ではないな」
レオンが呟いた。
その言葉に、エリオットの右手がわずかに熱を増した。
この時点では、まだ誰も分からない。
ただ、普通の商会員ではない者たちが、二月前、この奥へ黒塗りの箱を運び込んだ。
その事実だけが、排水路の冷気より重くのしかかった。
第二分岐の奥は、人工的な小部屋になっていた。
旧排水路の一部を広げたのだろう。壁は荒く削られ、天井には補強材が打ち込まれている。だが、その補強材は水路を守るためというより、何かを固定するための枠に見えた。
床の中央に、浅い水溜まりがある。
水は動いていない。
それなのに、水音だけがしていた。
ちろちろと流れる音。
低く沈む音。
遠くから近づいてくる音。
音だけが、方向を失っている。
ミラは息を止めた。
小部屋の奥、石壁に半ば埋め込まれるようにして、黒い箱があった。
黒塗りの木箱。
表面には、古い封印具とも商会の補強材とも違う、細い黒い線が刻まれている。水路から引かれた細い導管のようなものが、箱の下へ通されていた。
箱の周りだけ、白い苔が異様に密集している。
花のように見えるほど美しい白。
けれど、ミラには分かった。
あれは白ではない。
白く見せかけた、冷たい膜だ。
胸元の白花のペンダントが、強く震えた。
同時に、エリオットが小さく息を呑む。
右腕の補助具の中で、薬指と小指が、ほんのわずかに内側から反応した。
動いたわけではない。
けれど、そこに力が戻ろうとしている。
「エリオットさん」
「触らない」
彼は先に言った。
声は低く、少しだけ苦しそうだった。
「だが、あれだ」
ミラは黒い箱を見つめる。
水の道が、そこへ集められている。
そして、そこで曲げられている。
患者の薬の道も。
坑道苔に染みた冷たい白も。
水場の灰色の反応も。
すべて、ここへ繋がっていた。
「ここで……カーヴェルの水が曲げられています」
ミラの声は震えていた。
セリアが封印布を広げる。
レオンが剣に手をかける。
ロベルトは、黒塗りの箱を見たまま、顔から血の気を失っていた。
「これが……補強材……」
言葉はそこで途切れた。
ミラは白花を細く灯した。
まだ戻さない。
まだ触れない。
まず見る。
水の本来の道を。
箱に絡め取られた流れを。
どこを解けば、村へ戻せるのかを。
黒い箱は、水音の中で沈黙していた。
けれど、その沈黙そのものが、こちらを見返しているようだった。




