迷う水の道 1
翌朝、カーヴェル坑下村は、いつもより早く目を覚ました。
水場はまだ使えない。
石槽の周りには白石布の札が揺れ、村人たちは地上から運ばれてきた水樽の前に列を作っている。子どもや老人、患者の家へ先に水が運ばれ、それから食事用、薬草用、洗浄用と分けられていく。
誰もが不安そうだった。
けれど、初日のような混乱はなかった。
何を使ってはいけないのか。
何を調べなければならないのか。
誰に知らせればいいのか。
それが少しずつ分かってきたからだ。
ミラは、診療小屋の前で白石布を畳んでいた。
ニーナが隣で、患者の朝の状態を読み上げる。
「ニルスは夜中に一度咳き込みました。でも、熱は昨日より少し低いです。水汲み場で倒れたマルコさんは、手足の冷えがまだ強いです。洗い場のリタさんは、薬草茶を替えてから喉の音が少し減りました」
「分かりました。午前中にもう一度診ます」
ミラは頷いた。
すると、ニーナが不安そうに旧排水路の方を見た。
「本当に、行くんですね」
「はい」
「私も……」
「ニーナさんは、村に残ってください」
ミラは優しく遮った。
「水の仕分けと患者さんの経過を見られる人が必要です。私たちが奥で何か見つけた時、村側で動ける人がいないと困ります」
ニーナは悔しそうに唇を噛んだが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。戻ってきたら、すぐ診療小屋へ」
「はい。必ず」
その言葉を聞いて、ニーナは少しだけ顔を上げた。
旧排水路の前には、すでにセリアが道具を並べていた。
坑道灯が三つ。
命綱。
封印布。
白石布。
反応針。
水除けの革袋。
簡易退避札。
記録板。
セリアは一つずつ確認しながら言った。
「旧排水路内では、水に直接触れないでください。白い苔も同様です。ミラさんは水の流れを見るだけ。戻すのは、原因を確認してからです」
「はい」
「エリオットさんは感知役です。右手は使わない。補助具から出さない」
「分かっている」
エリオットは短く答えた。
その右腕は補助具に収められ、さらに白石布で薄く包まれている。手のひらの奥に熱はある。薬指と小指の感覚も、昨日よりはっきりしていた。
けれど、動かさない。
今は、まだ。
レオンは扉の鎖を確認し、剣の位置を直した。
「俺が先頭に立つ。ザイル氏はその後ろで道を示せ。ミラとセリアは中央。エリオットは後方寄りで感知。何かあればすぐ引く」
ロベルトは、青ざめた顔で頷いた。
「途中までは、構造を覚えています。ただ、奥は……二月前の搬入時にも、私は最後までは入っていません」
「どこまで行った」
「第二分岐の手前までです。そこから先は、本部が手配した者たちが箱を運びました」
「分かった」
レオンはそれ以上責めなかった。
責めるのは後でいい。
今は、道が必要だった。
鉄鎖が外され、旧排水路の扉が開いた。
重い音が坑道に響く。
中から流れてきた空気は、冷たかった。
水の匂い。
古い石の匂い。
そして、白い苔の、湿っているのに乾いたような匂い。
ミラの胸元の白花が、ひやりと震える。
「行くぞ」
レオンが坑道灯を掲げ、先に入った。
旧排水路は狭かった。
左右の壁は湿り、足元の中央に細い水路が走っている。水は浅く流れているはずなのに、その音は妙に遠く聞こえた。時折、すぐ足元で鳴ったかと思えば、次の瞬間には壁の向こうから響いてくる。
白い苔が、壁の下半分に広がっていた。
光は弱い。
けれど、坑道灯の橙色を受けても、温かくならない。
ミラは一歩踏み出した。
その瞬間、足元が揺れた。
「……っ」
石床が動いたわけではない。
けれど、体の奥だけが、水の流れに引きずられるように傾いた。
水は前へ流れているはずだった。
それなのに、ミラにはそれが、何度も横へ折れ、見えない壁にぶつかり、また別の道へ押し込められているように見えた。
まっすぐな水路のはずなのに、流れだけが蛇行している。
いや、蛇行ではない。
迷っている。
どこへ流れるべきか分からなくなった水が、同じ場所を何度も巡っているようだった。
「ミラ」
低い声が背後から届いた。
左腕が、ミラの背を支える。
エリオットだった。
その声で、ミラはようやく自分の足が石床の上にあることを思い出した。
「大丈夫か」
「……はい。でも、少し……酔ったみたいです」
「流れに引かれたか」
「たぶん」
ミラは目を閉じ、息を整えた。
村全体を見ない。
排水路全部を見ない。
今、見るのは一本だけ。
「全部を見るな」
エリオットが言った。
まるで、ミラの考えを読んだようだった。
「正しい流れだけを辿れ」
ミラは目を開けた。
「はい」
白花の光を、細く、細く絞る。
白く光るものを追ってはいけない。
この排水路の白は、ほとんどが偽りだ。
本来の道は、もっと静かだ。
目立たない。
見落としてしまいそうなほど細い。
けれど、冷たくない。
ミラは、足元の水路へ意識を落とした。
冷たい白に何度も横へ逸らされる水の中に、かすかな本来の流れがあった。岩盤から湧き、村へ向かい、人の喉を潤し、薬草を育てるはずだった道。
それだけを、辿る。
「……こっちです」
ミラは囁いた。
レオンが振り返る。
「分かるのか」
「はい。水が、本当はこっちへ流れたがっています」
ロベルトが息を呑んだ。
「この先は、第一分岐です。左は古い排水路。右は補修用の横穴」
「水は?」
「本来は左へ流れます」
ミラは首を横に振った。
「今は、右へ引かれています」
セリアがすぐ記録する。
「本来の排水路は左。現在の干渉は右分岐へ誘導」
レオンは右の横穴へ坑道灯を向けた。
壁の白い苔が、そこだけ濃い。
「行くぞ。足元に気をつけろ」




