第六の名 3
しばらくして、侯爵は低く問うた。
「エリオット・バーンスタンの右腕は、そこまで戻っているのか」
セヴランの目がわずかに細くなる。
「エルダントで反応が出ました」
「どの程度だ」
「白花へ近づいた偽白干渉に対し、黒系誘導波を拒む外向き反応。剣性反応と見てよいでしょう」
「剣性……」
侯爵はその言葉を反芻した。
守護騎士。
古い伝承。
王家の剣。
魔を断ち、邪を制す者。
かつてなら笑い飛ばしたかもしれない。
だが、二年前に彼らが封じたものは、ただの若い騎士の将来ではなかったのかもしれない。そう思わせるだけの報告が、少しずつ積み上がっていた。
「二年前に封じたはずだ」
「通常なら、戻りません」
「またそれか」
「条件が変わりました。白花がそばにいる」
「ミラ・コックスか」
「はい」
セヴランは淡々と頷いた。
「彼女は、思っていたより早く偽白を見分け始めています。カーヴェルでは、水路への干渉を戻そうとするでしょう」
「止められるのか」
「止める必要はありません」
「何?」
「戻させればよいのです。白花が核に触れ、騎士が反応する。その後で回収すれば、より価値が高い」
侯爵は、思わず一歩下がりそうになった。
「貴様は……本当に」
言葉が続かなかった。
悪趣味。
狂気。
研究狂い。
どれも足りない。
セヴランは、人が苦しむことを楽しんでいるわけではない。
それならまだ分かりやすい。
彼はただ、苦しみを観測値として扱っている。
その方が、ずっと気味が悪かった。
「第六は何名だ」
侯爵はようやく問いを変えた。
「ガレスは、三名を出すはずです」
「はず?」
「彼は第六を嫌っています。全員は出さないでしょう」
「当然だ。あれは便利だが、扱えるものではない」
「それでも、彼は動かします」
「なぜ言い切れる」
「エリオット・バーンスタンの右腕が戻り始めているからです」
セヴランの声は静かだった。
「ガレスにとって、それは核以上に脅威です。二年前の事故隠蔽が崩れる。副団長の座も、閣下との関係も、すべて揺らぐ」
侯爵は口を閉ざした。
否定できなかった。
「あなたも同じでしょう」
「私を脅しているのか」
「確認です」
セヴランの口元が、わずかに上がる。
「我々は、互いに必要なものを提供してきました。閣下は庇護と商会網を。ガレスは実働を。治療院は症例と処置を。私は術式を」
「それが今、互いの首を締めている」
「まだです」
「まだ、だと?」
「締まる前に、回収します」
侯爵は深く息を吐いた。
雨の音が強くなる。
「ノックス」
「はい」
「カーヴェルの件を、これ以上広げるな」
「広がるかどうかは、白花と剣次第です」
「ふざけるな」
「ふざけてはいません」
セヴランは落ち着いた声で言った。
「だからこそ、エルネストと第六を置いています」
セヴランが去った後、侯爵はしばらく執務室に一人残った。
燭台の火が、湿った空気の中で細く揺れている。
机の上には、カーヴェルからの報告書がある。
坑道下に入った外部治療師。
水場の異常。
止められた坑道苔の荷。
写しを取られた可能性のある商会通達。
そして、第六。
侯爵は椅子に座り直し、目を閉じた。
二年前、彼は決断した。
ひとりの騎士を封じること。
王家の古い伝承が再び力を持たないようにすること。
騎士団内の協力者を利用し、治療院の記録を封じ、黒塗り木箱を夜に動かすこと。
あの時、すべては必要な措置だった。
そう思っていた。
だが今、封じたはずの騎士の右腕が戻り始めている。
落ちこぼれと見なされた治療師の娘が、白花を持って道を戻している。
地方に撒いた火種が、王都へ戻る道を作り始めている。
「……管理可能、か」
侯爵は低く呟いた。
ノックスの言葉が、ひどく遠く聞こえた。
その時、側近が控えめに扉を叩いた。
「閣下。商会筋へ追加の指示を出されますか」
侯爵は目を開けた。
「出す」
「内容は」
「カーヴェルの通達経路を切れ。ザイルに直接繋がる文書は回収しろ。リュナールで止められた荷については、品質確認中として処理する。瘴気という語は使わせるな」
「承知しました」
「それから」
侯爵は一拍置いた。
「ガレスへも、念を押せ。第六の痕跡を残すな、と」
側近の顔がわずかに強張った。
「第六を……」
「聞くな」
「はい」
側近は深く頭を下げ、部屋を出ていった。
一人になった侯爵は、窓の外を見た。
雨に濡れた王都の灯りは、薄くぼやけている。
彼は政治家だった。
損得を天秤にかけることには慣れている。
誰かを切り捨てることにも、必要ならば迷わない。
だが、セヴラン・ノックスは違う。
あの男の天秤には、人の重さが乗っていない。
あるのは反応。
条件。
観測値。
回収対象。
侯爵は初めて、わずかに思った。
本当に、あの男を利用しているのは自分たちなのか。
それとも、最初から利用されているのはこちらなのか。
窓を叩く夏の雨音が、答えのように続いていた。




