第六の名 1
王都に雨が降っていた。
夏の雨は、冷たさよりも重さを運んでくる。
貴族街の石畳は黒く濡れ、街灯の光を鈍く映していた。セーヴァルト侯爵邸の奥にある執務室では、厚い帳が半ば下ろされ、湿った空気を追い払うように香炉の煙が細く漂っている。
窓を閉め切っているせいで、部屋の中は蒸していた。
けれど、ベルトラン・セーヴァルト侯爵の顔色は、その熱気とは反対に冷えていた。
机の上には、商会筋から届いた報告書が置かれている。
――カーヴェル坑下村に、外部治療師一行が入った。
――水場の異常を確認。
――カーヴェル産坑道苔および関連薬材の一部が、リュナール宿場町で一時保留。
――商会本部通達の写しを取られた可能性あり。
――同行者に銀環堂関係者、元騎士エリオット・バーンスタンと思しき者あり。
侯爵は報告書を握り潰しそうになった。
「……通したのか」
低い声に、机の前に控えていた側近が肩を強張らせる。
「ザイルは一度は止めたようです。しかし、坑下村で患者が倒れ、外部治療師の診療を拒みきれず……」
「だから、外部者を入れるなと通達したのだ」
「はい」
「水場まで見せたのか」
「そのようです」
侯爵は椅子の背に身を預けた。
香炉の煙が、雨気を含んだ空気の中で細く曲がる。
その煙の揺れ方すら、今の侯爵には癪に障った。
カーヴェルの件は、地方の商会管理下で処理できるはずだった。
坑道苔は出荷させる。
村の症状は季節病か水質不良で処理する。
外部治療師や薬師は落盤危険を理由に遠ざける。
それだけでよかった。
少なくとも、ノックスはそう言った。
――急性の崩壊は起きません。
――管理可能です。
――むしろ、坑道苔の流通は観測に有用です。
その言葉を、侯爵は信じたわけではない。
ただ、利用できると思った。
ミラ・コックスとエリオット・バーンスタンの動きを止める。
セヴランとの協力関係を保つ。
商会利権と鉱山権益を守る。
二年前の黒塗り木箱の線を王都へ戻させない。
そのためには、地方の村ひとつの不調など、管理できる損害だと考えた。
だが、報告書は違うことを告げている。
外部治療師は入った。
水場を調べた。
通達の写しを取った。
荷の流通も止まり始めている。
管理できていない。
「ノックスを呼べ」
侯爵は短く命じた。
セヴラン・ノックスが侯爵邸へ現れたのは、雨がさらに強くなった頃だった。
黒い外套の裾は濡れていたが、彼自身は雨に乱された様子を少しも見せなかった。まるで、外の湿気も王都の蒸し暑さも、彼の思考には届かないかのようだった。
侯爵は挨拶を省いた。
「カーヴェルの件だ」
「報告は受けています」
「では聞こう。これは本当に管理できているのか」
セヴランは少しだけ首を傾けた。
「管理、とは」
「言葉遊びをするな」
侯爵の声が荒くなる。
「外部治療師が坑下村に入った。水場の異常を確認された。商会本部の通達も見られた可能性がある。リュナールでは坑道苔の荷まで止められている」
「想定より、少し早いですね」
「少し?」
侯爵は机を叩いた。
燭台の火が小さく揺れ、壁に映った影が一瞬だけ歪んだ。
「貴様は、坑道苔の出荷を止めるなと言った。私は商会に通達を出した。外部者を入れるな、異常を大事にするな、出荷は続けろと。だが、もしこの件が表に出れば、通達を書かせた者まで辿られる」
「すぐには辿れません」
「すぐでなくとも、いずれ辿られる」
「その前に、必要なものは回収します」
セヴランの返答は、あまりに静かだった。
侯爵は眉をひそめる。
「必要なもの?」
「カーヴェルに置いた核、あるいは核由来触媒です」
「……本当に、危険はないのだろうな」
侯爵は低く問うた。
「私は貴様の研究の話を聞きたいのではない。火の粉がこちらへ来るかを聞いている」
「急性の被害ではありません。症状は分散しています。原因も特定しにくい。正式調査さえ入らなければ、品質異常や水質不良で処理できます」
「正式調査が入りかけていると言っている」
「まだ、地方の治療師一行が現地で記録を取っている段階です」
「その一行に、コックスの妹とバーンスタンがいる」
侯爵の声が、さらに冷えた。
「偶然ではあるまい」
「偶然ではありません」
セヴランはあっさり認めた。
「彼らは、カーヴェルで観測するには適した存在です。白花が水路をどこまで戻せるか。騎士の右腕が核にどこまで反応するか。非常に有用な条件です」
「私は観測の話をしているのではない」
「私はしています」
侯爵の目が鋭くなった。
セヴランはわずかに微笑んだ。




