曲げられた水路 2
エリオットの右手は、日に日に反応を強めていた。
使ってはいない。
握ってもいない。
それでも、旧排水路へ近づくたびに、手のひらの奥が熱を帯びる。
初日は、ただ奥へ引かれる感覚だった。
二日目には、熱の向きが分かるようになった。
旧排水路の扉の奥、少し下。水が流れる場所。そこから、冷たい白と黒い芯が混じったものが、水に絡みついている。
三日目には、薬指と小指の感覚がはっきりしてきた。
布の圧が分かる。
補助具の内側に触れるわずかな重みが分かる。
エリオットは、それをミラに伝えるか迷った。
伝えれば、彼女は喜ぶだろう。
同時に、心配する。
その顔を想像して、胸の奥が少し苦しくなった。
「何か変化がありましたか」
ミラは、そういう時ほどすぐに気づく。
診療小屋の外、短い休憩時間だった。
エリオットは観念して答えた。
「薬指と小指の感覚が、昨日よりはっきりしている」
ミラの目が見開かれた。
「本当ですか」
「ああ。ただし、動かしてはいない」
「動かさないでください」
「分かっている」
即答すると、ミラは少しだけ安心したように息を吐いた。
それから、治療師の顔で補助具の上へ白石布をかける。
「確認だけします。痛みが出たらすぐ言ってください」
「ああ」
ミラの白花が細く灯る。
右腕の奥にあった黒い封じは、まだ残っている。けれど、手のひらから薬指と小指へ伸びる白銀の筋は、以前より少し太くなっていた。
ミラの表情が、ふわりと明るくなる。
「……戻ってきています」
その声が震えていた。
エリオットは右手ではなく、ミラの顔を見ていた。
右手が戻ることより、彼女がこんなにも安堵することに、胸を突かれた。
「よかったです。本当に……」
ミラはすぐに口を引き結び、治療師らしく表情を整えようとした。
けれど、隠しきれていない。
エリオットは静かに言った。
「ミラ」
「はい」
「俺は無理をしない」
先に言うと、ミラは目を瞬いた。
「……先に言われました」
「君が心配すると思った」
「心配します」
「分かっている」
エリオットは少しだけ息を吐いた。
「だから言った」
ミラは一瞬困った顔をして、それから小さく笑った。
「それなら、安心しました」
その笑顔を見て、エリオットは言葉を失った。
右腕の熱とは別のものが、胸の奥で静かに灯る。
守りたい。
その思いは、右腕が告げる本能だけではなかった。
三日目の夕方、ミラたちは診療小屋に集まった。
机の上には、村の地図、水路図、患者の記録札、薬草棚の分類表、旧排水路の調査記録が並べられている。
セリアが順番に読み上げた。
「患者の症状は、水場の使用頻度と相関があります。特に水汲み、洗い場、薬草処理、坑道苔棚の担当者に重症者が多い」
ニーナが頷く。
「旧排水路近くで育てた苔ほど冷たい反応が強いです。地上側の薬草は比較的弱い。でも、水場で洗ったものは反応が出ています」
レオンが続ける。
「旧排水路の封鎖時期は二月前。白い苔が増え始めた時期と一致。黒塗りの箱が補強材名目で搬入されている。扉周辺には重い箱を引いた痕と、新しい鎖。商会本部の通達あり」
ロベルトは黙っていた。
だが、逃げなかった。
最後に、エリオットが低く言う。
「右手の反応は旧排水路の奥へ向かっている。前に封じた核に似ているが、こちらは水に絡んでいる。核そのものか、核由来触媒が水源に干渉している可能性が高い」
室内は静まり返った。
ミラは机の上の水路図を見た。
水場。
旧排水路。
封鎖扉。
その奥にある、まだ誰も見ていない場所。
「明日、旧排水路に入ります」
ミラは言った。
ニーナが息を呑む。
ロベルトが顔を上げた。
「危険です」
「はい」
「落盤もあります。水が急に増えることもある。奥の構造図も古い」
「だから、準備して入ります」
セリアがすぐに続ける。
「坑道灯、命綱、白石布、封印布、反応針、防水袋、退避札。記録係は私。先導はレオンさん。エリオットさんは感知。ただし右手は使わない。ミラさんは水の流れの確認。村人は同行しない」
「私が案内します」
ロベルトが言った。
全員の視線が彼へ向く。
「旧排水路の途中までは、私が構造を知っています。本部からの封鎖前、何度か確認に入ったことがあります」
レオンが目を細めた。
「逃げないのか」
「逃げたいですよ」
ロベルトは苦い笑みを浮かべた。
「ですが、ここまで来て、まだ知らなかったことにする方が怖い」
ミラは彼を見つめた。
許したわけではない。
けれど、今は必要な案内人だった。
「お願いします」
ロベルトは、深く頭を下げた。
その夜、カーヴェル坑下村は、初日より少しだけ静かだった。
咳の音はまだある。
水場は使えない。
不安は消えない。
それでも、村人たちは水桶の札を見分け、薬草棚を分け、患者へ地上水を運んでいた。
何を避ければいいのか。
何を記録すればいいのか。
それが分かるだけで、人は少し動ける。
ミラは診療小屋の前に立ち、水場の奥を見た。
旧排水路の扉は閉じている。
その向こうから、今日も水音がする。
近づいたり、遠ざかったり。
道を迷うように。
エリオットが隣に来た。
「眠れそうか」
「少しだけ」
「少しだけか」
「エリオットさんは?」
「正直に言うなら、難しい」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
ミラは白花に触れる。
「明日、原因を見つけます」
「ああ」
「でも、無理はしません」
「俺もだ」
その返事を聞いて、ミラは頷いた。
急がない。
けれど、逃げない。
村の水を曲げているもの。
薬の道を横へ逸らしているもの。
前に封じた核と同じ系統の、けれど水に絡みついた何か。
それを見つけるために。
翌朝、ミラたちは旧排水路へ入る。




