曲げられた水路 1
坑道下に入ってから三日、ミラたちはカーヴェルの調査と水源の確保、患者の治療に追われていた。
村の水場には、もう誰も近づかない。
かつては洗い桶や薬草籠が並び、子どもたちが桶を覗き込んで叱られていたという石槽の周りには、今は白石布と注意札が張られている。
――飲用不可。
――薬用不可。
――洗浄不可。
――旧排水路確認まで使用停止。
セリアの字は簡潔で、村人にも分かりやすかった。
その代わり、地上から水樽を運ぶ荷台が、一日に何度も坑道を上下するようになった。ロベルトは商会の人員と馬を出し、地上の宿場から飲み水を運ばせている。
村人たちの目は、まだ彼に冷たい。
けれど、水樽が届くたびに、小さな子どもや老人の家へ真っ先に運ぶ姿を見て、怒鳴る者は少しずつ減っていった。
責めることと、生きるために今必要なことは違う。
ミラは、この数日でそれを何度も見た。
診療小屋には、患者の記録札が壁一面に貼られていた。
ニルス。軽度の咳、微熱、薬効鈍化。水場の水を毎日飲用。
水汲み場で倒れた若い男。強い冷え、呼吸浅い。水場作業多。
洗い場の女性。手足の痺れ、喉の水音。薬草洗浄作業あり。
老人三名。慢性的な咳、夜間の悪夢。水場近くの家。
子ども五名。微熱、食欲低下。井戸水の使用量多。
ミラは一人ずつ診た。
最初は、どの患者にも同じように見えた。
冷え。咳。薬が効かない。水の音を聞く夢。
けれど、一人ずつ魔力路を見ていくうちに、違いが分かるようになった。
薬の道だけが曲げられている者。
体内の水の巡りまで横へ逸らされている者。
喉と肺の間に冷たい白が薄く膜のように触れている者。
まだ深くまでは入っていないが、放っておけば悪化する者。
ミラは、白花の光を細く保つことを覚え始めていた。
村全体を見ない。
患者一人だけを見る。
その人の中で、どの道が曲げられているのかを探す。
最初の頃は、つい焦って光を広げてしまい、エリオットやセリアに止められた。けれど、三日目には、ミラ自身が手を止められるようになっていた。
無理に戻せば、患者の体が驚く。
強く押せば、別の道を傷つける。
戻すのは、引きずり出すことではない。
本来そこにあった流れを、思い出させること。
「……息を吸ってください。ゆっくりで大丈夫です」
ミラがそう言うと、寝台の老人はゆっくり息を吸った。
喉の奥で水が鳴るような音がして、それから少しだけ胸が上下する。
白花の光が、老人の胸の内側で細くほどけた。
冷たい白に触れて横へ滑っていた熱の道が、わずかに元へ戻る。
老人の顔色が、ほんの少し和らいだ。
「楽に、なった……」
「よかったです。でも、水場の水は使わないでください。薬草茶も、ニーナさんが確認した水で煎じたものだけにしてください」
「ああ……ああ、分かった」
ミラは手を離した。
同時に、肩から力が抜ける。
ふらつくほどではない。
けれど、疲れは確かに溜まっている。
その瞬間、横から湯気の立つ杯が差し出された。
「飲め」
エリオットだった。
「ありがとうございます」
「休憩札の時間だ」
「セリアさんが決めたやつですね……」
「俺も賛成した」
ミラは少しだけ笑った。
「では、従います」
杯を受け取ると、温かい薬草茶の香りがした。カーヴェル産ではなく、エルダントから持ってきたものだ。
エリオットはミラが飲むのを見届けてから、ようやく診療小屋の入口へ視線を戻した。
その横顔を見て、ミラは胸の奥が少し落ち着くのを感じた。
エリオットが隣にいると、息がしやすい。
そう思ってから、ミラは小さく首を傾げた。
それは、患者が安定している時の安心に似ている。
でも少し違う。
まだ、その違いを考える余裕はなかった。
セリアは、村の薬草棚と坑道苔の石棚をほとんど支配下に置いていた。
「この棚は使用停止です。白石布が灰を拾いました」
「これは?」
「地上側の薬草で、洗った水も地上水。薬用候補です。ただし、念のため弱い患者には使わないでください」
「この苔は……」
「旧排水路近くの石棚で育てたものですね。使用不可。検査用に少量だけ封印します」
ニーナはその横で必死に記録を取っていた。
「こんなに分けるんですね」
「分けなければ、原因が見えません」
セリアは手を止めずに言った。
「カーヴェルの薬材がすべて駄目なのではなく、どこで育ったか、どの水で洗ったか、いつ採ったかで反応が違います。これを記録すれば、村が回復した後に何を再開できるかも分かります」
ニーナの表情が少し変わった。
「再開……できるんですか」
「可能性はあります。ただし、今は止めるべきものを止める方が先です」
「はい」
ニーナは大きく頷いた。
この三日で、彼女もずいぶん変わった。
最初は不安と焦りでいっぱいだった若い薬草師は、今では村人たちに検査札の意味を説明し、使える薬草と使えない薬草を分け、患者の水の使用歴を聞き取っている。
ミラだけでは、ここまで早く村人たちへ話を通せなかった。
ニーナがいてくれたから、村は動けた。
レオンは、旧排水路の周辺を調べ続けていた。
封鎖扉の前には、荷を引きずった痕が残っている。坑道の湿気で普通なら消えていてもおかしくない傷が、冷たい白の膜に覆われたように残っていた。
その傷は、ただ重い箱を運んだだけではつかない。
何か金属の角が、石床をこすった痕。
さらに、扉の横の壁には、古い封印具を取り外した跡があった。新しい鎖と商会封鎖印の下に、もっと古い別系統の留め跡がある。
「補強材ではないな」
レオンが言うと、ロベルトは黙ったまま顔を伏せた。
「……書類上は、補強材でした」
「書類上は、だろう」
レオンは責めるように言わなかった。
その方が、ロベルトには堪えたようだった。
「本部から来た者は、箱を旧排水路の奥へ運べと言いました。私は、中身を確認していない。確認しなかった」
「なぜ」
「聞けば、責任を持たされると思ったからです」
ロベルトは苦い顔で答えた。
「知らなければ、商会本部の指示に従っただけで済む。そう思っていた」
「今は?」
「知らなかったことにはできない」
その声は、疲れきっていた。
レオンは少しだけ頷く。
「なら、覚えていることを全部書け。誰が来たか。何人だったか。箱の大きさ。封の色。運んだ時刻。使った荷台。通達の写しも含めて、全部だ」
「王都へ送るのですか」
「ミラたちは政治の出どころまでは読めない。俺も専門ではない。だが、記録があれば、王都で読む者がいる」
ロベルトは、しばらく旧排水路の扉を見ていた。
やがて、静かに言った。
「……書きます」




