水を分ける 2
レオンは旧排水路の扉周辺を調べていた。
扉は古い。錆も浮いている。だが、鎖だけは新しかった。木札も新しい。墨はまだ薄れておらず、商会の封鎖印も最近押されたものに見える。
「二月前、だったな」
レオンが言うと、ロベルトは頷いた。
「商会本部から封鎖命令が来ました。旧下層区画は落盤の恐れがある、と」
「その前に、誰かが入った記録は?」
ロベルトは一瞬迷った。
レオンの目が細くなる。
「あるんだな」
「……本部の許可で、補強材が運び込まれました」
「補強材」
「書類上はそうです」
ロベルトは苦い顔で言った。
「黒塗りの箱でした。石材や補強具にしては、やけに厳重な封がしてあった。私は中身を確認していません」
「運んだのは商会の人間か」
「半分は商会の荷運び。残りは、本部が手配した者です」
「騎士か?」
「分かりません。装備はしていなかった。ただ……普通の荷運びではなかった」
レオンは扉の脇にしゃがみ込んだ。
湿った床に、古い傷がある。重い箱を引きずった痕。二月前なら、通常は水気で消えていてもおかしくない。だが、坑道の奥から流れてくる冷たい白い膜のせいか、痕が妙に残っていた。
「セリア」
呼ぶと、セリアがやってきた。
「記録を」
「はい」
「旧排水路前、最近交換された鎖。商会封鎖印。重い箱を引きずった痕。搬入時期は二月前。ロベルト・ザイル証言、商会本部許可による補強材名目」
セリアは素早く書き取った。
「黒塗りの箱、と」
その言葉に、ミラの手が一瞬止まる。
黒塗り。
エリオットの右手が、補助具の中で熱を増した。
空気が少しだけ冷たくなる。
「開けるのは明日です」
セリアが先に言った。
「今日は患者対応と水の切り分けが優先です。旧排水路に入るには、封印布、坑道灯、水除け、退避路、記録係、護衛を整える必要があります」
レオンも頷く。
「同感だ。今入れば、向こうの条件で動くことになる」
ミラは旧排水路の扉を見た。
奥にある。
水の道を曲げているものが。
今すぐ行きたい。
原因を止めたい。
でも、ここで急げば、また同じことになる。
彼女は深く息を吸った。
「明日にします」
エリオットがそっと頷いた。
夕方までに、水の仕分けは半分ほど終わった。
地上から最初の水樽が届き、患者と子どもたちへ配られた。村人たちはまだ不安そうだったが、ニーナが中心になって説明を続けている。
「この札が付いたものは飲まないでください。薬草を煎じるのにも使わないで。白い布越しに確認してから、こちらの棚へ」
ニーナの声は掠れていたが、揺れていなかった。
ロベルトは地上と坑下村を何度も往復し、商会の荷台と人員を動かした。村人たちの視線は冷たい。だが彼は逃げなかった。
ミラはそれを見て、少しだけ胸が重くなった。
彼を許すかどうかは、自分が決めることではない。
けれど、今は同じ方向へ動いている。
それで十分だった。
夜、ミラたちはニーナの診療小屋の隣にある空き家を借りた。
元は薬草乾燥小屋だったらしく、壁にはまだ草の匂いが残っている。セリアは机代わりの木箱に記録を広げ、レオンは入口近くで剣を手入れしていた。
エリオットは、窓のない壁際に座っている。
右手の補助具は外していない。
だが、熱は昼よりも強いようだった。
「眠れそうですか」
ミラが尋ねると、エリオットは少し苦笑した。
「正直に言うなら、難しい」
「痛みますか」
「痛みではない。旧排水路の奥から、ずっと呼ばれているような感覚がある」
ミラの表情が曇る。
「それ、危ない反応ですよね」
「ああ。だから触れない」
エリオットはすぐに言った。
ミラは少しだけ安心した。
彼は続ける。
「ただ、分かる。あの奥にあるものは、前に封じた核に似ている。でも、水に絡みついている分、こちらの方が村へ広く影響している」
セリアが記録に書き加える。
「核または核由来触媒が水源近くに設置されている可能性。右手感知、旧排水路奥から持続反応」
「明日は、まず扉周辺を封じます」
ミラは言った。
「それから、奥へ入る前に水の流れを確認します。いきなり核をどうにかしようとはしません」
「それでいい」
エリオットが静かに言う。
「急がない。だが、逃げない」
その言葉に、ミラは頷いた。
深夜、村は静まり返っていた。
地上の風は届かない。坑道灯の火だけが、時折小さく揺れる。
ミラはなかなか眠れず、乾燥小屋の外へ出た。
水場の方から、かすかな音がする。
水が流れる音。
けれど、自然な音ではない。
近づいたり、遠ざかったり。
どこかで道を迷っているような、不安定な音。
胸元の白花が冷たく震える。
「ミラ」
背後から声がした。
振り返ると、エリオットが立っていた。
「すみません、起こしましたか」
「眠れなかった」
彼は隣に来て、水場の方を見る。
「音がする」
「はい。水が、迷っているみたいに聞こえます」
「明日、見る」
「はい」
ミラはぎゅっと手を握った。
「エリオットさん。私、また全部を見ようとしていました」
「止まれた」
「止めてもらったからです」
「次は、自分でも止まれる」
エリオットの声は、責めるものではなかった。
だからこそ、ミラの胸に残った。
「……そうなりたいです」
「なれる」
短い言葉だった。
根拠なんてないはずなのに、彼に言われると、不思議と信じられる。
水場の奥で、また冷たい白が揺れた。
エリオットの右手が、わずかに震える。
ミラはそれに気づき、そっと言った。
「明日は、無理をしないでくださいね」
「君もだ」
二人は同じ言葉を返し合い、少しだけ笑った。
坑道下の村は、まだ冷たい白に包まれている。
けれど、村の水はもう、誰にも気づかれないまま人を蝕むものではなくなった。
明日。
旧排水路の扉を開ける。
その先にあるものが、カーヴェルの水を曲げている。
そして、おそらくはエリオットの右手を呼んでいる。
ミラは白花に触れ、静かに息を整えた。
急がない。
けれど、逃げない。
その言葉を胸に、冷たい水音を聞きながら夜を越えた。




