水を分ける 1
水場の使用停止を告げると、カーヴェル坑下村は静かに揺れた。
最初に声を上げたのは、洗い場にいた年配の女だった。
「水を使うなって、じゃあ飯はどうするんだい」
続いて、薬草棚の近くにいた男が顔をしかめる。
「坑道苔も洗えない。薬草も浸せない。出荷はどうなる」
「子どもたちの飲み水は?」
「地上から運ぶにしても、どれだけ時間がかかると思ってるんだ」
声は不安から始まり、すぐに怒りに変わった。
その矛先は、まずロベルトへ向いた。
「ザイルさん、あんた知ってたのか」
「商会は何を隠してた」
「落盤危険って言ってたじゃないか。水が悪いなんて聞いてないぞ」
ロベルトは顔を強張らせたまま、何も言えなかった。
先ほどまで管理代理として坑道門を塞いでいた男は、今は村人たちの視線に晒されている。弁明の言葉はいくらでもあるはずだった。商会本部の通達、鉱山権益、出荷停止の損害、上からの圧力。
けれど、診療小屋で苦しむ患者と、水場の反応を見たあとでは、それらはあまりにも薄かった。
「今は責めるより、使える水と使えない水を分ける方が先です」
ミラが言った。
声は大きくない。けれど、広場に広がりかけた怒りの流れを、そっと押し留める力があった。
村人たちが彼女を見る。
ミラは一人ひとりの顔を見た。
「この水を使い続けると、症状が悪くなる可能性があります。でも、すべての水が同じとは限りません。地上から運べる水、貯めてある水、薬草用に使った水、飲み水。それぞれ分けて確認します」
セリアがすぐに白石布と反応針を掲げた。
「素手で水や白い苔に触れないでください。確認できるまでは、布越しに扱います。反応針が白く曇ったあと灰色へ沈むものは使用停止です。水桶ごとに札を付けます」
ニーナが前へ出た。
彼女の背後では、先ほど地上で診た少年――ニルスが、母親に支えられながら椅子に座っている。咳はまだ残っているが、呼吸は少し落ち着いていた。
「みんな、聞いて」
ニーナの声に、村人たちは少し静かになった。
「私たちだけじゃもう分からなかった。薬草も水も、何が悪いのか分からなくなってた。でも、ミラさんたちは調べ方を持ってきてくれた。まず水を分けよう。飲める水を確保しよう」
「でも、地上の水だけで足りるのか」
誰かが言った。
レオンが答える。
「今すぐ全員分は難しい。だが、患者、子ども、老人を優先する。地上の宿場から水を運ぶ。運搬の手配は俺が見る」
ロベルトがはっと顔を上げた。
「荷運びの者を使えます。水樽なら、地上の倉庫に空きがある」
村人の視線がまた彼へ向いた。
ロベルトは一度唇を噛み、それから頭を下げた。
「……私が手配します。商会の馬と荷台を使います」
「商会が?」
「ええ」
声は硬かった。
「今さらだと言われても仕方ない。だが、使えるものは使います」
その言葉に、村人たちはまだ納得しきれていない様子だった。けれど、怒鳴る者はいなかった。
今は水が必要だった。
村の広場は、すぐに仕分け場になった。
水桶には木札が付けられた。
白。保留。
灰。使用停止。
無反応。飲用候補。
薬用不可。
洗浄も不可。
セリアは村人にも分かるように、できるだけ短い言葉で手順を書いた。
「難しい術式名は不要です。必要なのは、誰が見ても間違えない札です」
彼女はそう言いながら、白石布を小さく切り分けていく。
ニーナは村の薬草棚を開け、採取日と採取場所を確認していた。
「この棚は旧排水路近くで育てた苔です。こっちは地上側の乾燥薬草。これは……たぶん水場で洗ったあとに干したもの」
「分けます」
セリアが即答する。
「同じ棚に戻さないでください。薬草は、採取場所よりも洗った水の影響を受けている可能性があります」
ミラは患者の診察を続けた。
ニルス。水汲み場で倒れた若い男。洗い場の女性。咳が続く老人。微熱と冷えを繰り返す子ども。
一人ずつ見る。
村全体を一度に見ようとしない。
そう決めているのに、患者の列が長くなるたび、胸の奥が急いていく。
この人も。
あの人も。
早く見ないと。
白花の光が、少しだけ強く広がりかけた。
「ミラ」
隣からエリオットの声がした。
低く、静かな声。
ミラははっと息を呑む。
気づけば、白花の光が患者一人分を越えて、足元の石床へ薄く広がろうとしていた。
エリオットは左手を伸ばし、ミラの肩を支えた。
「村全部を背負わない」
「でも、皆さん苦しんでいます」
「だから、一人ずつだ」
エリオットは、ミラが先ほど自分に言ったのと同じような声で続けた。
「君が教えてくれたことだろう」
ミラは唇を結んだ。
胸が苦しい。けれど、エリオットの手の温かさで、足元に戻ってこられる。
「……はい」
白花の光を細く絞る。
目の前の患者へ。
その人の中の、曲げられた薬の道へ。
無理に全部を救おうとしない。
今、戻せる道を戻す。
「ありがとうございます」
小さく言うと、エリオットは少しだけ視線を逸らした。
「礼を言われることはしていない」
「してます」
ミラはそう返してから、また患者の手に白石布をかけた。
エリオットはしばらく黙ってその横にいた。
右手は補助具の中で熱を持っている。
だが、彼は触れない。
使わない。
ただ、ミラが自分を見失いそうになるたびに、隣から引き戻す。
それが今できる守り方だった。




