坑道下の白い村 2
ロベルトは診療小屋の入口で、蒼白な顔をしていた。
目の前で患者の呼吸が少し楽になった。
それでも彼の表情は晴れない。
ミラには、その理由が少しだけ分かった。
よかった、で済ませられないのだ。
今ここで異常が証明されれば、ロベルトが隠してきたことも、商会が隠そうとしてきたことも、すべて表に出る。
レオンが静かに言った。
「ザイル氏。地上で言っていた“季節の変わり目”では説明がつかない」
「……分かっています」
ロベルトは苦しげに答えた。
「では、なぜ止めた」
「止めろと言われたからです」
その声は低かった。
ミラたちが振り向く。
ロベルトはしばらく黙っていたが、やがて胸元から折り畳まれた紙を出した。
「商会本部からの通達です」
差し出された紙を、セリアが受け取る。
そこには、硬い文面が並んでいた。
――カーヴェル坑道下への外部治療師・外部薬師の立ち入りを制限すること。
――坑道苔および関連薬材の出荷は継続すること。
――住民の体調不良は季節病、水質不良、落盤危険に伴う一時的影響として処理すること。
――正式調査依頼は商会本部を通すこと。
ミラには、政治的な意味までは分からない。
ただ、分かったことがある。
この通達は、患者を守るためのものではない。
村を守るためのものでもない。
外の目を入れず、荷を止めず、異常を小さく見せるためのものだ。
セリアが文面を写しながら言う。
「患者保護より流通維持が優先されています。地方の管理代理が一人で判断する文面ではありません」
レオンも通達を見た。
「責任者の名がない。命令の形だけ残して、誰が出したかを曖昧にしている」
「……私は」
ロベルトの声が震えた。
「私は、何も知りません。坑道の奥に運び込まれたものも、書類上は旧区画補強材でした。商会本部の許可もあった。だから通した」
彼は顔を歪めた。
「けれど、村の異常が増えてからも、私は止められなかった。止めれば商会が責任を問われる。坑道が封鎖されれば村人の仕事も消える。私も切られる」
言い訳だった。
でも、全部が嘘ではなかった。
ミラは通達から視線を上げる。
「この紙の背後に誰がいるか、私には分かりません」
ロベルトは顔を上げた。
「でも、これは兄に送ります。王都で調べてもらいます」
ロベルトの肩がびくりと揺れた。
「王都へ……」
「はい。ここで何が起きているのか、記録します。患者さんも、水も、薬草も、通達も」
「そんなことをすれば、商会が――」
「何もしなければ、村の人が悪くなります」
ミラの声は大きくなかった。
けれど、ロベルトはもう反論しなかった。
水場は、村の奥にあった。
岩盤から湧き出す水を石の槽に受け、そこから水路へ流している。昔から村の中心だったのだろう。水場の周りには、洗い桶や薬草を浸す籠が並んでいた。
水は透明だった。
透明すぎるほどだった。
セリアが反応針を近づける。
針先が白く曇る。
それから、ゆっくり灰へ沈む。
「強いです」
ニーナが口元を押さえた。
「この水を、みんな……」
ミラは水面を見つめた。
水そのものに黒い瘴気が満ちているわけではない。
けれど、水が湧き出す前に、何かに触れている。
その何かが、水の道を少しだけ曲げている。
「水源はこの奥ですか」
ミラが尋ねると、ニーナが頷いた。
「古い排水路のさらに奥です。でも今は封鎖されています。落盤の危険があるからって」
ロベルトが苦い顔をする。
「旧下層区画です。二月ほど前に、商会本部から封鎖命令が来た」
「二月前」
セリアが記録する。
「白い苔が増え始めたのは?」
ニーナははっとした。
「……その頃です」
レオンが水場の奥を見た。
そこには、古い鉄扉があった。錆びた鎖がかけられ、「旧排水路・立入禁止」と書かれた札が吊るされている。
エリオットが一歩近づいた。
右手の熱が、はっきりと強まる。
ミラはすぐ彼の袖を掴んだ。
「エリオットさん」
「分かっている。触らない」
彼は扉を見つめたまま言った。
「だが、奥にある」
空気が冷えた。
水の音が、やけに大きく聞こえる。
「核ですか」
ミラが囁く。
エリオットは少しだけ眉を寄せた。
「リンドルの地下にあったものと似ている。だが、少し違う。もっと……水に絡んでいる」
セリアが封印布を握り直した。
「水源に干渉する位置へ置かれている可能性があります」
ニーナは青ざめていた。
「そんな……じゃあ、村のみんなはずっと」
ミラは水場を見た。
この村の人たちは、毎日この水を使ってきた。
薬草を洗い、苔を育て、食事を作り、子どもたちへ飲ませてきた。
胸が痛む。
けれど、泣いている暇はない。
「まず、水の使用を止めます」
ミラは言った。
「飲み水と薬用水は、地上から運んでください。水場の水は洗い物にも使わない方がいいです。ニーナさん、村の人たちへ伝えられますか」
「はい」
「セリアさん、簡易検査手順を」
「すでに書き始めています」
「レオンさん、旧排水路の周囲を見てください。誰かが出入りした跡があるかもしれません」
「分かった」
エリオットは扉から目を離さなかった。
「俺はここにいる。奥の反応が変われば伝える」
ミラは彼を見た。
「絶対に無理はしないでください」
「約束する」
その返事は、低く、確かだった。
ロベルトは、鉄扉の前で動けずにいた。
「私は……知らなかった」
誰に向けた言葉か分からない声だった。
「知らなかったことにしておきたかった」
ミラは何も言わなかった。
それは許しではない。
責めないということでもない。
ただ、今は人を助ける時間だった。
セリアが通達の写しを封筒に入れる。
「この件は王都へ送るべきです。ただし、直接名を挙げて断定はしません。通達の文面、封緘、商会本部経由の圧力。事実だけを送ります」
「兄なら、照合してくれると思います」
ミラは頷いた。
政治のことは分からない。
商会の背後関係も、貴族の力関係も、自分には読めない。
でも、見たものは記録できる。
患者がいた。
水に反応があった。
白い苔は冷たかった。
商会本部は外部者を入れるなと命じていた。
それを、兄へ送る。
王都で、ライヘルが繋げてくれる。
旧排水路の扉の奥から、かすかに水音がした。
一定の音ではない。
近づいたり、遠ざかったりするような、不安定な音。
ミラは胸元の白花のペンダントに触れた。
ここから先に、カーヴェルの異常の根がある。
けれど、飛び込んではいけない。
患者。水。苔。通達。旧排水路。
分けて見る。
戻せる道を、ひとつずつ見つける。
エリオットが隣で静かに言った。
「急がなくていい」
ミラは顔を上げた。
「でも、急がないと」
「急ぐ。だが、手順は飛ばさない」
その言葉に、ミラはゆっくり息を吸った。
「はい」
水場の奥で、また冷たい白が揺れた。
カーヴェル坑下村の本当の異常は、まだ扉の向こうにある。




