封鎖門の前で 2
その時、坑道門の奥から咳き込む声が聞こえた。
柵の向こうから、若い女性が一人、子どもを抱えるようにして上がってくる。見張りの男が慌てて止めようとしたが、女性はそれを振り切った。
「ロベルトさん、もう無理です!」
彼女は息を切らして叫んだ。
「ニルスの熱が下がりません。薬草茶も効かない。下の診療所じゃ手に負えないんです」
「ニーナ、勝手に上がるなと言っただろう」
「言われて引き返せる状態じゃありません!」
ニーナと呼ばれた女性は、ミラたちに気づくと、縋るようにこちらを見た。
「治療師さんですか」
「はい」
ミラはすぐに歩み寄った。
「診せてください」
「待て」
ロベルトが止める。
だが、レオンが静かにその前に立った。
「患者が目の前にいる」
「ここは商会管理区域だ」
「患者を診るのに、商会の許可がいるのか」
ロベルトは答えられなかった。
ミラはその間に、子ども――ニルスを木陰へ座らせた。年は十歳ほど。顔色は悪く、額には汗が浮いている。咳は乾いているのに、喉の奥で水が鳴るような音がした。
「いつからですか」
ミラが尋ねる。
ニーナが答えた。
「十日ほど前からです。最初は軽い咳だけでした。でも、坑道下の井戸水を飲んだ後から悪くなって……薬草茶も、熱冷ましも、途中で効かなくなるみたいで」
「途中で」
ミラは白花の力を細く灯した。
強く広げない。
患者一人分だけ。
ニルスの呼吸と、魔力路の流れを見る。
胸の奥から喉へ上がる熱の道。
胃から薬を受け取る道。
水を体に巡らせる道。
そのうちのいくつかが、途中で曲げられていた。
塞がれているのではない。
折られているのでもない。
本来なら喉から胸へ落ちるはずの薬の流れが、横へ逸れて、冷たい白い膜に触れ、そこで鈍っている。
「薬が効いていないんじゃありません」
ミラは静かに言った。
「薬の道が、途中で曲げられています」
ニーナが息を呑む。
「道……?」
「体に入った薬が、届く場所へ届いていないんです。水も同じ。熱も、正しく上がりきれない。だから治りきらない」
ミラはニルスの手に白石布をかけ、その上からそっと触れた。
無理に剥がさない。
引き戻すのではなく、本来の流れを思い出させる。
白花の光が、細く流れた。
ニルスの呼吸が少しだけ楽になる。
「……あ」
ニーナが声を漏らした。
「咳が……」
「一時的に楽になっただけです。原因はまだ奥にあります」
ミラは坑道門の方を見た。
同時に、エリオットが右手を押さえる。
「奥だ」
低い声だった。
ロベルトが身構える。
「何の話です」
「この子の症状は、坑道下の水か苔と繋がっています」
ミラは立ち上がった。
「地上の患者だけを診ても、原因は分かりません。坑道下へ入る必要があります」
「許可できない」
ロベルトは即座に言った。
「落盤の危険が――」
「落盤ではありません」
ミラの声が、少しだけ強くなった。
「少なくとも、それだけではありません」
セリアが反応針をニルスの水筒へ近づけた。
針が白く曇り、灰色へ沈む。
彼女はロベルトへ見せた。
「水にも反応があります。記録します。カーヴェル地上荷置き場、坑道下住民の水筒。偽白傾向」
「記録、記録と……!」
ロベルトの声が荒くなる。
「あなた方は書けば済むかもしれない。だが、こちらはその記録で仕事を失う者が出るんです」
「だから、患者を見なかったことにするんですか」
ミラは彼を見つめた。
ロベルトの顔が歪む。
その時だった。
坑道の奥から、低い鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
三度。
ニーナの顔が青ざめる。
「下層の緊急鐘です」
見張りの男が慌てて坑道口へ走る。
すぐに、別の村人が駆け上がってきた。
「ニーナ! 下でまた倒れた! 水汲み場の近くで、今度は二人だ!」
ロベルトの表情から、血の気が引いた。
ミラは鞄を掴む。
エリオットがすぐ隣に立った。
「行くのか」
「行きます」
「なら、手順通りに」
「はい」
セリアは白石布と反応針をまとめ、レオンは坑道門の見張りを見る。
「通してもらおうか」
ロベルトは黙っていた。
拒めば、目の前の患者を見捨てることになる。
通せば、商会の封鎖を破ることになる。
彼は苦しげに歯を食いしばった。
「……地上の診療だけでは、済まないというのか」
「済みません」
ミラは答えた。
ロベルトは長く息を吐き、見張りへ命じた。
「鎖を外せ」
「ザイルさん!」
「外せ!」
鉄鎖が重い音を立てて外された。
坑道門の奥から、冷たい空気が流れてくる。
白い苔の匂い。
湿った石の匂い。
そして、もっと深い場所にある、黒いものの気配。
エリオットの右手が、補助具の中で熱を持った。
ミラは一度だけ彼を見た。
「無理はしないでください」
「君もだ」
短い言葉を交わし、二人は頷く。
そしてミラたちは、カーヴェル坑下村へ続く暗い道へ足を踏み入れた。




