帰る者の役目 1
エルダントを出て三日目の朝、オリヴァーは荷馬車の揺れで目を覚ました。
薄い幌の隙間から、夏の朝の光が差し込んでいる。エルダントの運河沿いとは違い、このあたりの道は乾いていた。轍に溜まった土埃が、車輪のたびに細く舞う。
同じ馬車には、ロアンとダリオが乗っていた。
荷台の奥には、銀環堂で整えた封印箱が三つ。
中身は、偽白灯籠の反応写し、エルダントで採取した封印布の控え、そしてミラたちが南へ向かう前にまとめた記録の写し。
本物の核はない。
あれはまだ、リンドルの魔道具屋地下にある。
それでも、オリヴァーは荷から目を離せなかった。
「眠れましたか、師匠」
ロアンが声をかけてきた。
「少しはね」
オリヴァーは苦笑する。
「君たちこそ、交代で見張りをしてくれたんだろう。ありがとう」
「ダリオがいびきをかくので、見張り中も退屈しませんでした」
「おい、ロアン」
ダリオがむっと顔を上げる。
「俺はいびきなんぞかいてない」
「馬が一度驚いていました」
「それは荷車の軋みだ」
いつもの軽いやり取りに、オリヴァーは少しだけ肩の力を抜いた。
ミラたちとは別れている。
彼女は南へ。
自分はリンドルへ。
道は違う。
けれど、繋がっている。
それを忘れないためにも、自分が戻る場所でやるべきことを、ひとつずつ進めなければならなかった。
昼前、馬車は街道沿いの小さな休憩所に入った。
木陰に馬を繋ぎ、ダリオが水を汲みに行く。ロアンは荷台の封印箱を確認し始めた。オリヴァーは簡易机を出し、三通の先触れを書き始める。
一通目は、リンドル魔道具師組合へ。
――グレイル村旧坑道に残る瘴気封入触媒の正式調査準備を依頼。
――坑道用封印灯、白石布、反応針、石箱を用意。
――触媒本体への直接接触は禁止。
二通目は、リンドル魔術組合へ。
――瘴気核および核由来触媒の反応測定協力を依頼。
――王立魔術院へ送付する反応写しの照合準備。
――グレイル村周辺の水脈、土壌、空気の測定が必要。
三通目は、リンドル薬草師組合へ。
――グレイル村住民の咳熱、倦怠、薬効低下、悪夢などの経過観察を依頼。
――坑道周辺の薬草採取停止。
――汚染疑いのある薬草は薬材として流通させないこと。
書き終えたところで、オリヴァーは筆を止めた。
グレイル村。
ミラが最初に核を拾った場所。
核を欠いた触媒だけが坑道に置かれ、不完全なまま村を蝕んだ場所。
あの村を、通り過ぎた事件にしてはいけない。
ミラはきっと、今も気にしている。
自分が南へ進んでいる間、あの村がどうなっているのか、胸の奥でずっと抱えているはずだ。
「……放っておかないよ、ミラ」
小さく呟く。
その声は、風に紛れた。
封筒へ組合印代わりの簡易封緘を押していると、ダリオが水桶を持って戻ってきた。
「師匠、リンドルまで急げば五日くらいで行けますかね」
「無理はしない」
オリヴァーは即答した。
「荷がある。封印箱もある。道中で反応が変われば止まって確認する。七日から八日。天候次第では十日見ておく」
「ミラさんたちは、その頃にはカーヴェルへ?」
「早ければ入っているだろうね」
オリヴァーは南の空を見た。
ミラたちは、宿場町リュナールを経てカーヴェルへ向かう。
坑道下の村。
咳熱。
冷たい白い苔。
薬効の止まり。
エルダントでの偽白灯籠より、ずっと広い。
「大丈夫でしょうか」
ロアンがぽつりと言った。
普段は軽い彼の声が、この時は少し硬かった。
「ミラさんたち、南へ行って……」
「大丈夫、と言い切るのは簡単だけれど」
オリヴァーは封印箱に目を向けた。
「危険はある」
ロアンとダリオは黙った。
「だからこそ、こちらも動く。ミラたちが前で異常を見つけるなら、私たちは後ろで記録を固め、被害地を守る。ライヘルは王都で証拠を追う。誰か一人で抱える話ではない」
「ミラさん、そう言っても無理しそうですけど」
「するね」
オリヴァーは苦笑した。
「でも、今は止める人がいる」
「エリオットさんですか」
「ああ」
オリヴァーの表情が少し柔らかくなる。
「彼は、ミラの道を塞がない。けれど、危ない時には止める。あの子に必要なのは、そういう人だ」
ダリオがにやりとした。
「師匠、それは父親としてかなり信頼してますね」
「職人としても、人としても信頼している」
「娘さんの相手役としては?」
ロアンが余計なことを言った瞬間、オリヴァーは静かに彼を見た。
ロアンはすぐに目を逸らす。
「すみません。言いすぎました」
ダリオが肩を震わせて笑う。
オリヴァーはため息をついた。
「……ミラはまだ、エリオット君を患者として見ているよ」
「師匠は?」
「私は父親だ。余計な判断はしない」
「つまり?」
「見守る」
妙にきっぱりした言い方だった。
ロアンとダリオはそれ以上追及しなかった。賢明だった。
休憩所を出る前に、オリヴァーは一番小さな封印箱を開けた。
中に入っているのは、エルダントの偽白灯籠から採った反応写しである。白石布に挟んだ薄い紙片は、普通の人間が見れば何の変哲もない記録紙にしか見えない。
だが、オリヴァーの目には、その奥に残る冷たい白の沈みが見えた。
「変わりは?」
ロアンが尋ねる。
「弱まってはいない」
「ということは、向こうの術式がまだ生きている?」
「灯籠自体は封じた。だが、この反応写しは本体ではない。記録だ。記録なのに、薄く冷たさが残っている」
オリヴァーは慎重に白石針を近づけた。
針先が白く曇り、すぐに灰へ沈む。
エルダントで見た偽白。
グレイル村の核。
これからミラたちが向かうカーヴェルの白い苔。
同じ糸で繋がっている。
「ミラたちに持たせた反応針は足りるだろうか」
「銀環堂のセリアさんが、山ほど入れてましたよ」
ダリオが答える。
「ミラさんが持ちすぎて重いって顔してました」
「あの子は、重いと言いながら全部持っていくだろうね」
オリヴァーは少し笑った。
それから、箱の蓋を閉じる。
「リンドルに戻ったら、まず地下の核を確認する」
ロアンとダリオの表情が引き締まる。
「封印状態。反応の変化。外からの干渉痕。すべて見る」
「王都へは?」
「実物は送らない」
オリヴァーは迷わず言った。
「王都へ送るのは、反応写しと封印布の控えだけだ。本物を動かせば、必ず狙われる」
「セヴラン側が、ですか」
「おそらく」
「核の位置を見ている可能性があるんですよね」
「ああ。だから、動かさないことにも意味がある」
ロアンが腕を組んだ。
「でも、動かさないならリンドルが狙われるんじゃ?」
「その可能性もある」
オリヴァーは静かに頷いた。
「だから組合を動かす。地下の封印は二重から三重へ。工房の周囲に反応糸を張る。王都へ送る荷には、必要なら囮を混ぜる」
ダリオが口笛を吹きかけて、慌ててやめた。
「師匠、本気ですね」
「最初から本気だよ」
オリヴァーの声は穏やかだった。
けれど、目は笑っていない。
「敵が核を欲しがるなら、欲しがっている事実そのものを記録にする」




