南から来た荷 2
宿へ戻る頃には、夕陽が町の屋根を赤く染めていた。
食堂では、荷運び人たちが夕食を取っている。レオンは自然にその中へ入り、南から来た者たちの会話を拾い始めた。セリアは窓際の席に封印袋を置き、坑道苔の反応を細かく記録している。
ミラは、エリオットの右腕を確認するため、食堂の隅の席に白石布を敷いた。
「痛みは強くなっていませんか?」
「強くはない」
「熱は?」
「まだ少し残っている」
「指先は?」
そう聞くと、エリオットは少しだけ黙った。
ミラは顔を上げる。
「エリオットさん?」
「薬指と小指に、重さの感覚がある」
「重さ?」
「ああ。補助具の内側の布が、どちらへ引かれているか分かる」
ミラの表情が明るくなりかけた。
でも、すぐに深呼吸する。
「動かしません」
自分から言った。
エリオットの口元が、ほんの少し緩む。
「先に言われる前に言ったな」
「はい。ライヘル兄さんにも、父さんにも、メリッサさんにも怒られそうなので」
「俺も止める」
「知っています」
ミラは白花を細く灯し、右腕の流れを見た。
夏灯祭のあとに見えた白銀の筋は、まだ消えていない。手のひらの中心から、薬指と小指へ細く伸びている。そこへ今日、南から来た苔の冷たさが触れ、線がわずかに強く反応していた。
回復している。
けれど同時に、危険へ近づいている。
ミラは眉を寄せた。
「無理に進めると、黒い封じが軋みます。でも、右手は危険なものを見分け始めています」
「役に立つか」
「はい。でも、頼りすぎるのは危険です」
「分かった」
エリオットは素直に頷いた。
その返事があまりに迷いなくて、ミラは少し驚いた。
「すごく素直ですね」
「君に心配をかける方が、右手を動かすより痛い」
ミラの手が止まった。
エリオット自身も、言ってから少しだけ目を逸らした。
食堂のざわめきが、妙に遠くなる。
「……えっと」
ミラは困ったように瞬きをした。
「それは、治療師として心配しているからで……」
「分かっている」
エリオットは静かに答えた。
「でも、君が青ざめると、俺は落ち着かない」
その言葉は、低く、飾り気がなかった。
ミラは胸の奥がふわりと熱くなるのを感じた。けれど、それをどう受け取ればいいのか分からない。
だから、いつものように治療師として答えた。
「じゃあ、私が青ざめないように、無茶しないでください」
「ああ」
エリオットは頷いた。
「約束する」
その声に、ミラはなぜか安心した。
夜、四人は宿の小さな部屋で情報を整理した。
レオンが集めた話は、どれも似ていた。
「カーヴェル坑下村では、半月ほど前から咳と微熱が増えている。薬草の効きが悪い。白い坑道苔が増えた。井戸水が日によって鉄臭い。最近、鉱山商会の代理人が村への出入りを制限し始めた」
「鉱山商会?」
ミラが聞く。
「閉山した坑道の管理権を持っているらしい。名目は落盤防止と盗掘防止。ただ、村人の親族でも下層へ入りにくくなっている」
セリアが記録板を見ながら言う。
「外部治療師を入れにくくするには、便利な名目です」
「南方薬師組合への紹介状があっても、止められるでしょうか」
「止めようとはするだろう」
レオンは答えた。
「だが、完全に拒めば逆に怪しまれる。まずは地上の宿場で足止め、坑道下へは入れるな、という形になる可能性が高い」
ミラは帳面を握った。
「でも、患者さんは坑道下にいるんですよね」
「おそらく」
セリアが静かに言った。
「それと、坑道苔の反応はエルダントの偽白灯籠より薄いですが、範囲は広いかもしれません。灯籠は点、カーヴェルは面です」
点ではなく、面。
その言葉に、ミラは背筋が冷えた。
村全体に、薄く広がっているのかもしれない。
エリオットが口を開く。
「右手は、苔そのものより奥へ反応している。たぶん核か、それに近いものがある」
「カーヴェルに」
「ああ」
部屋の空気が重くなる。
けれど、誰も引き返そうとは言わなかった。
ミラは深呼吸した。
「まずは、明日もう少し情報を集めます。薬草商の店主さんに、カーヴェル便の荷主を聞きます。それから南方薬師組合宛ての紹介状を見せて、現地の薬師さんへ繋がる道を探します」
「無理に聞き回るな」
エリオットが言う。
「顔色が悪くなったら止める」
ミラは苦笑した。
「今日はもう止められています」
「明日も止める」
「毎日ですか?」
「必要なら」
セリアが淡々と記録板を閉じた。
「ミラさんの休憩時間も予定表に入れます」
「セリアさんまで」
「必要なので」
レオンが低く笑った。
「いい体制だ」
ミラは少しだけ頬を膨らませたが、反論はしなかった。
以前なら、もう少し頑張れます、と言っていたかもしれない。
けれど今は分かる。
自分が倒れたら、誰も助からない。
そして、心配してくれる人たちがいる。
その夜、エリオットはなかなか眠れなかった。
右手の奥に、まだ微かな熱が残っている。
痛みではない。
焦げるような感覚でもない。
南へ向かえ、と告げるような、細い熱。
白い苔の冷たさ。
カーヴェル方面から来る違和感。
そして、ミラがそれを見つめた時の、わずかに青ざめた顔。
胸の奥がざわついた。
守れ、と右腕が言う。
だが、それだけではない。
エリオット自身が、彼女を危険に近づけたくなかった。
けれど、彼女が行こうとするなら、その道を塞ぐのではなく、隣を歩かなければならない。
オリヴァーの言葉を思い出す。
――守ることと、無茶をすることは違う。
「……分かっています」
誰にともなく呟き、エリオットは右手を見下ろした。
まだ剣は握れない。
だが、ミラが傷つく道だけは、少しずつ分かるようになってきている気がした。
翌朝、宿場町には南からの荷馬車がまた一台入ってきた。
荷台には乾いた布で包まれた木箱がいくつも積まれている。
その中の一つが、宿場の石畳へ下ろされた瞬間、エリオットの右手が熱を持った。
ミラも同時に振り向いた。
木箱の隙間から、白い苔の匂いがした。
そして、ほんの少し。
水ではない、土でもない。
もっと深い場所から上がってくるような、冷たい白の気配がした。
カーヴェルは、もう近い。




