南から来た荷 1
エルダントを離れると、道の匂いが変わった。
運河の湿った風は背後へ遠ざかり、代わりに南街道の乾いた土と草の匂いが混じる。道幅は思ったより広く、荷馬車の轍がいくつも重なっていた。夏の陽射しは強いが、街道沿いにはところどころ背の高い木があり、旅人たちはその陰を選ぶように歩いている。
ミラは、肩にかけた鞄の紐を少し直した。
エルダント治療院から受け取った紹介状。
南方薬師組合への封書。
銀環堂で整えた反応針と白石布。
ライヘルへの返書の控え。
そして、カーヴェル方面の噂を書き留めた小さな帳面。
荷は多い。
けれど、不思議と心細くはなかった。
少し前をレオンが歩き、道の先と周囲の気配を見ている。セリアは荷馬車の脇で、封印箱の揺れ具合を時々確認していた。エリオットはミラの隣を歩き、右腕を補助具の中に収めたまま、左手で手綱をゆるく持っている。
「疲れていないか」
エリオットが低く聞いた。
ミラは顔を上げる。
「大丈夫です。まだ歩けます」
「“まだ”は、疲れている時にも使う言葉だ」
「……エリオットさん、だんだん父さんみたいになってきました」
「それは光栄なのか」
「たぶん、かなり」
そう答えると、エリオットは少しだけ目を細めた。
その表情に、ミラは胸の奥がふっと緩むのを感じた。道は知らない場所へ続いている。けれど、彼が隣にいると、足元が少し確かになる。
それを、ミラはまだ「頼もしい」としか呼べなかった。
昼過ぎ、最初の宿場町に着いた。
宿場町リュナールは、南街道の中継地として栄えている小さな町だった。石造りの井戸を中心に、旅籠、馬小屋、荷置き場、薬草商の小さな店、鍛冶屋が並んでいる。エルダントほど大きくはないが、人の出入りは多い。
南から来た荷馬車が埃をまとって停まり、北へ向かう旅人が水袋を満たしていた。
「ここで一泊する」
レオンが言った。
「カーヴェル方面へ向かうなら、次の宿場まで距離がある。無理に進むより、ここで情報を集めた方がいい」
「はい」
ミラは頷いた。
セリアがすでに宿場の掲示板を見ていた。
「南方薬師組合の支所はありませんが、薬草商の出張窓口があります。カーヴェルの薬草が入っているかもしれません」
「まず宿を取る。それから聞き込みだ」
レオンの判断は早い。
宿は、街道沿いの古い旅籠だった。木の梁が黒ずみ、入口には乾いた薬草束が吊るされている。旅人が多いせいか、女将は手慣れた様子で部屋を用意してくれた。
「南へ行くのかい?」
「カーヴェル方面へ」
レオンが答えると、女将の手が一瞬止まった。
「……坑道下の村かい」
その反応に、ミラたちは顔を見合わせた。
「何かご存じですか?」
ミラが尋ねると、女将は少し声を落とした。
「最近、あっちから来る人は皆、咳をしてる。熱があるってほどじゃないのに、顔色が悪い。薬草も効きにくいらしい。うちにも何人か泊まったけど、夜中にうなされてね」
「うなされる?」
「ああ。水の音がする、とか、白い壁が迫ってくる、とか。夢の話だろうけど、続くと気味が悪いよ」
ミラの指先が、帳面の表紙を押さえた。
白い壁。
水の音。
夢。
セリアが静かに記録を取り始める。
「カーヴェルから来た荷はありますか」
「薬草商のところに、坑道苔が届いていたはずだよ。昔はよく薬に使われたんだけどねえ。最近のは、なんだか触ると冷たいって話さ」
夕方、ミラたちは薬草商の店を訪ねた。
店先には乾燥した根、束ねた薬草、木箱に詰められた鉱石苔が並んでいる。店主は痩せた初老の男で、エルダント治療院の紹介状を見ると、表情を少し改めた。
「治療院からの紹介なら、見せられるものは見せましょう。ただ、カーヴェルの品は今あまり勧められません」
「なぜですか?」
ミラが尋ねる。
「効きが鈍い。乾かしても湿気を含んだように重い。白い坑道苔は見た目だけは良いんですが、薬にすると妙に冷える」
店主は奥から木箱を持ってきた。
中には、薄く白い苔が丁寧に詰められていた。
見た目は柔らかく、月明かりを吸ったように淡い白。けれど、箱が開いた瞬間、ミラの胸元の白花のペンダントが小さく冷えた。
温かさではない。
あの夏灯祭の偽白灯籠に似た、乾いた冷たさ。
「触らないでください」
セリアが先に言った。
彼女は白石布を広げ、反応針を苔へ近づける。
針は一瞬、白く曇った。
だが次の瞬間、薄い灰色へ沈む。
「偽白に近い反応」
セリアが低く言う。
店主はぎょっとした。
「偽白?なんだそれは。まさか、これは薬草商の正規便で――」
「店主さんが悪いという話ではありません」
ミラはすぐに言った。
「ただ、この苔は薬として使わない方がいいです。少なくとも、原因が分かるまでは」
その時、エリオットがわずかに息を呑んだ。
ミラはすぐに振り向く。
「エリオットさん?」
「右手が反応している」
彼は補助具の中の右手を見下ろした。
「熱がある。痛みは軽い。手のひらの奥……南から来たものだと、分かる」
セリアの筆が動く。
「封箱、南方産坑道苔に反応。熱、軽度。方向感覚あり」
「方向感覚?」
ミラが聞き返す。
エリオットは少し眉を寄せた。
「この苔そのものより、奥にあるものへ引かれる感じがする。カーヴェル方面だ」
レオンの目が細くなる。
「近づくほど、反応が強くなる可能性があるな」
「はい」
ミラは白い苔を見た。
きれいな白だ。
でも、正しくない。
ライヘルの手紙にあった言葉が、胸の中で響く。
白く見える糸が、すべて正しいとは限らない。
「この苔、少しだけ検査用に預かれますか?」
ミラが尋ねると、店主はすぐ頷いた。
「ああ。むしろ調べてくれ。うちでも扱いに困っていたんだ」
セリアが丁寧に封印袋へ入れる。
「素手で触らないでください。保管するなら、乾燥箱ではなく石箱へ。湿気を吸うのではなく、周囲の流れを鈍らせる性質があるかもしれません」
店主は真剣な顔で頷いた。




