それぞれの行き先 2
夕方、ミラはオリヴァーと二人で銀環堂の裏庭に出た。
表では職人たちが荷をまとめ、セリアが最後の確認をしている。少し離れた場所では、エリオットとレオンが南街道の地図を確認していた。
裏庭には、祭りで使われた小さな光玉が乾かされている。
淡い青白い光を失ったそれらは、ただの透明な玉に見えた。
「ミラ」
オリヴァーが静かに呼んだ。
「はい」
「私はリンドルへ戻る。君は南へ向かう。ここからは、しばらく別々に動くことになる」
分かっていた。
それでも、言葉にされると胸が痛んだ。
「父さんが一緒にいてくれたから、ここまで来られました」
「それは違うよ」
オリヴァーは首を横に振った。
「君が自分で見て、考えて、動いたからここまで来た。私はその横で、道具を整えただけだ」
「そんなこと……」
「ある」
父の声は優しかったが、はっきりしていた。
「エルダントで、君は治療院に受け入れられた。患者を診て、薬袋事件を止め、偽白灯籠にも飲まれなかった。止まるべき時に止まった」
ミラは少し目を伏せた。
「兄さんに報告しました」
「うん。あれは大事な報告だ」
オリヴァーはそっと娘の肩に手を置いた。
「いいかい、ミラ。困った時は記録を残しなさい。怖い時ほど、誰が、いつ、何を見たのかを書きなさい。助けを呼ぶ道は、記録から作れる」
「記録から……」
「そうだ。君の力だけで全部を解決しなくていい。治療院、薬師組合、魔道具師、騎士団、魔術院。繋がる先は増えている」
ミラは父を見上げた。
「父さんも、危ないことをしすぎないでください」
オリヴァーは少し困ったように笑った。
「努力する」
「それ、私が言うとエリオットさんに怒られる言い方です」
「では、私も怒られるね」
「本当に気をつけてください」
「分かっている」
今度は、オリヴァーは真面目に頷いた。
「リンドルの核は動かさない。封印を強める。グレイル村の調査も、組合を通して正式に進める。無理はしない」
ミラはその言葉を聞いて、ようやく少し安心した。
その後、オリヴァーはエリオットとも短く話した。
銀環堂の軒先で、二人は向かい合っていた。
「エリオット君」
「はい」
「娘を頼む、とは言わない」
エリオットはわずかに目を見開いた。
オリヴァーは続ける。
「君は君自身も守らなければならない。右腕は戻り始めている。だが、今はまだ無理に使う時ではない」
「分かっています」
「ミラを守ろうとして、君が壊れては意味がない」
その言葉に、エリオットは少しだけ唇を引き結んだ。
「……はい」
「守ることと、無茶をすることは違う。君なら分かるね」
「分かります」
エリオットは静かに答えた。
「ミラを守ります。右手を使わずに。必要なら、周りを頼ります」
オリヴァーの表情が少しだけ和らいだ。
「それを聞けて安心した」
少し離れたところで、ミラはその会話を聞いていた。
胸が温かくなる。
エリオットがそう言ってくれたことも。
父が彼に「娘を頼む」ではなく「君自身も守れ」と言ってくれたことも。
どちらも、ミラには嬉しかった。
翌朝、銀環堂の前には荷馬車が二つ用意された。
一つはリンドル方面へ向かうオリヴァーたちの荷。
もう一つは、南街道へ出るミラたちの荷を途中まで運ぶためのものだ。
イザークは店の前で腕を組んでいた。
「まったく。祭りが終わったと思ったら、もう出立か」
「お世話になりました」
ミラが深く頭を下げると、イザークは少し気まずそうに目を逸らした。
「そういう改まったのは苦手だ。だが……まあ、悪くない仕事だった」
「店主、それは褒めていますか」
セリアが冷静に言う。
「最大限だ」
「分かりにくいです」
「君も最後まで手厳しいな」
「留守中、検査布の精度を落とさないでください。防水層の乾燥時間も短縮しないでください。祭り用灯籠の模造品対策は、昨日まとめた手順通りに」
「送り出される側の台詞じゃない」
「必要なので」
イザークはとうとう笑った。
「分かった。君が戻ってきた時に怒られない程度には守る」
「必ず守ってください」
「ああ」
短い返事だったが、そこには信頼があった。
メリッサとハーヴェイ院長も見送りに来ていた。
「南方薬師組合への紹介状、忘れないでね」
メリッサが言う。
「はい。大切にします」
「それから、休むこと」
「……はい」
「返事が少し遅いわ」
ミラは慌てて背筋を伸ばした。
「休みます」
メリッサは満足そうに頷いた。
ハーヴェイ院長は穏やかな顔で言った。
「ミラさん。あなたがエルダントで行ったことは、治療院の正式記録に残します。通達がどうであれ、あなたは患者を助けた治療師です」
ミラは喉の奥が詰まるのを感じた。
「ありがとうございます」
「南で困った時は、その記録を使いなさい」
「はい」
*
レオンは荷の固定を確認し、セリアは封印箱の留め具を最後にもう一度確かめた。エリオットはミラの隣に立ち、右手を補助具の中に収めたまま、静かに周囲を見ている。
オリヴァーたちの馬車は北西へ。
ミラたちは南街道へ。
道はここで分かれる。
ミラは父の前に立った。
「行ってきます」
オリヴァーは少しだけ目を細めた。
「行ってらっしゃい。無理をしないこと」
「父さんも」
「うん」
二人は短く抱き合った。
子どもの頃から変わらない父の匂いがして、ミラは少しだけ泣きそうになった。けれど、泣かなかった。
泣く別れではない。
それぞれが、それぞれの役目へ向かうだけだ。
荷馬車が動き出した。
エルダントの運河が朝の光を反射している。
橋の上では、祭りの最後の飾り布が外されていた。街の人たちが手を振ってくれる。薬袋事件の宿の女主人も、咳が治まった老人も、昨日助けた子どもとその母親もいた。
ミラは深く頭を下げた。
この街で、彼女は少しだけ認められた。
危険な力を持つ娘としてではなく。
患者を診る治療師として。
「行こう」
エリオットが言った。
「はい」
ミラは南の道を見た。
その先には、坑道下の村がある。
咳と熱。
薬草が効かない土地。
冷たい白い苔。
そして、おそらくはセヴランが用意した、白花と騎士の力を測るための実験場。
怖くないわけではない。
けれど、もう一人ではない。
セリアが記録を持っている。
レオンが道を見ている。
エリオットが隣にいる。
オリヴァーはリンドルへ戻り、後方を支える。
ライヘルは王都で、見えない敵の記録を追っている。
道は分かれても、繋がっている。
ミラは胸元の白花にそっと触れた。
そして、南へ歩き出した。




