切られた証人 1
マルグリットは、まず副院長室へ向かった。
王都中央治療院の東棟は、夜になると昼間の白さを失う。廊下の灯りは必要最低限に落とされ、薬草と消毒水の匂いだけが静かに残っていた。
エドヴィン副院長は、すでに報告を待っていた。
「コックス研究員とフェンネル研究員は?」
「帰りました」
マルグリットは扉を閉め、短く答えた。
「外部封印検体の受領簿を確認されています。M.V.の押印痕、処分記録の不在、エリオット・バーンスタンの治療不能記録の封印指定。いずれも見ています」
ラウシュは眉を動かさなかった。
「ニコラは?」
「動揺していました」
「余計なことを話したか」
「まだです。ですが、あの様子では、何かを覚えている可能性があります」
ラウシュは、机の上に置いていた羽根ペンを静かに置いた。
「若い助手の不確かな記憶など、正式な証言にはならない」
「ええ。ですが、魔術院側はそうは扱わないでしょう」
「……フェンネル研究員か」
「彼女は記録の隙間を見るのがうまい。コックス研究員は感情が先に出る分、まだ読みやすいですが」
マルグリットの声は淡々としていた。
ラウシュは少しだけ目を伏せる。
「ニコラを不用意に刺激するな。配置はそのままにして、しばらく夜勤から外せ。あからさまに遠ざけると、かえって怪しまれる」
「承知しました」
「それから、院外にも知らせておけ」
マルグリットは頷いた。
その言葉を待っていたように。
灰色の印を押した書状が、治療院の裏口から出されたのは、その夜遅くだった。
宛名はない。
だが、それを受け取る者は決まっている。
書状は王都の貴族街へ入り、いくつかの手を渡った。表向きには薬材取引の確認書。中身は、二年前の治療院検査室記録を魔術院側が探り始めたという警告だった。
その報せは、翌朝にはセーヴァルト侯爵側へ届いた。
そして、さらに半日後。
セヴランの机の上に、短い写しが置かれた。
――若手助手ニコラ・エーベル。
――二年前の検査室夜間搬入について記憶保持の可能性。
――コックス研究員、フェンネル研究員が接触済み。
セヴランはしばらく、その名前を見ていた。
「完全に消す必要はありませんね」
彼は独り言のように呟いた。
記憶を消せば、不自然になる。
証人を倒せば、騒ぎになる。
ならば、思い出す道だけを曲げればいい。
黒い紙片の上に、細い銀の線が引かれる。
特定語句に触れた時だけ、記憶路が横へ滑る。
黒い封箱。夜間搬入。検査室。M.V.の押印。エリオット・バーンスタンの治療不能記録。
そこへ近づこうとした時だけ、言葉がずれる。
嘘をつかせるのではない。
本人にも、何を思い出せないのか分からなくする。
セヴランは薄く笑った。
「証言できない証人は、黙った証人より扱いやすい」
二日後、ライヘルとオルガは再び王都中央治療院を訪れた。
表向きの用件は、先日の受領簿閲覧に関する補足確認。ドミニクは渋い顔をしたが、拒む理由までは用意できていないようだった。
ニコラとは、薬品棚の前で会った。
ニコラは二人を見た瞬間、少しだけ肩を強張らせた。
だが、それは前回の恐怖とは違っていた。
何かが薄い。
前回は、言いたいことを飲み込んでいる顔だった。
今は、何を言いたかったのか自分でも分からない顔だった。
「ニコラさん」
オルガが穏やかに声をかける。
「少しだけ確認してもいい?」
「……はい」
ニコラは小さく頷いた。
ライヘルは、極力声を抑えた。
「二年前、あなたは検査室の見習いだったと聞きました」
「はい。それは覚えています」
「夜間に、外部から封印された検体が運び込まれたことは?」
ニコラは瞬きをした。
「夜間……ええと、夜間は、薬品棚の補充があって……」
言葉が滑った。
ライヘルの眉がわずかに動く。
オルガも気づいた。
「黒い封箱を見ましたか?」
「黒い……」
ニコラの目が揺れる。
「黒い、いえ、暗かったので……たしか白い布を畳んで……あれ、違う。私は、何を……」
その瞬間、ライヘルには見えた。
ニコラの首筋からこめかみへかけて、細い魔力路が不自然に跳ねる。ごく微細な乱れだった。普通の治療師なら、緊張による揺らぎと見分けがつかない。
だが、同じ質問に近づくたび、同じ場所が同じ角度で乱れる。
偶然ではない。
「ニコラさん。マルグリット・ヴェイン治療師は、その夜、検査室にいましたか」
「ヴェイン……先生は、いつも検査室に……いえ、違う、あの日は、たしか……」
ニコラは急に顔をしかめた。
「すみません。頭が……」
「もういい」
ライヘルはすぐに言った。
その声が、思ったより鋭くなった。
ニコラが怯えたように顔を上げる。
ライヘルは、意識して声を落とした。
「これ以上、思い出そうとしないでください」
「でも、私は、何か……何か覚えていた気がするんです」
ニコラの目に、混乱と恐怖が浮かぶ。
「この前は、確かに……何か言わなきゃいけないと思って……でも、今は、そこへ行こうとすると、別のことが出てきて……」
オルガが低く言った。
「ライヘル」
「ええ」
ライヘルはニコラの魔力路を見た。
記憶そのものが消えているわけではない。
奥にある。
だが、その記憶へ向かう道が、巧妙に横へ曲げられている。
無理に引けば、傷つく。
記憶路の深部。
海馬にあたる固定領域へ、細く術式が絡んでいた。
「剥がせません」
ライヘルは、歯を食いしばるように言った。
「無理に触れれば、彼の記憶路を壊す」
ニコラの顔が青ざめた。
「私、何かされたんですか」
ライヘルは答えに詰まった。
その沈黙が、答えだった。
治療院内の他の治療師たちは、ニコラの異常を見抜けなかった。
「疲労でしょう」
「古い記憶を無理に思い出そうとして混乱しているだけでは」
「魔術院側の聞き取りが強すぎたのではありませんか」
そう言われるたび、ライヘルの表情は冷たくなっていった。
マルグリットも、廊下の向こうから静かに言った。
「若い助手に、無理な聴取をするのはおやめください。彼は治療師としての訓練途中です。過度な精神的負荷は、将来にも影響します」
その言葉に、ライヘルの拳が握られる。
正論の形をしていた。
だが、その奥にあるものを、彼はもう見ていた。
「……患者や助手を守る言葉を、便利に使うんですね」
ライヘルが静かに言う。
マルグリットは眉を動かさない。
「守るために言っています」
「なら、彼の魔力路に誰が触れたのか、調べるべきです」
「私たちには異常は見えません」
「見えないように作られているからです」
マルグリットは少しだけ首を傾げた。
「コックス研究員。あなたは、すでに答えを決めているのではありませんか」
ライヘルは返事をしなかった。
返事をすれば、怒鳴ってしまいそうだったからだ。
オルガが一歩前に出る。
「今日のところは下がるよ。ニコラさんには、これ以上聞かない」
「賢明です」
マルグリットの声は、最後まで穏やかだった。




